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世界の童話をアレンジしたら(三)

絵: 宮沢賢治

宮沢賢治は、1896年から1933年までの短い生涯の中で、多くの詩や童話を残しました。宮沢賢治の童話は、自然や動物、植物、星などの様々な存在が織りなす幻想的な物語です。彼は、幻想的な物語を通じて、仏教や農民生活に根ざした理想や、自然や宇宙への畏敬の念を表現するとともに、自然と人との関係や、善悪と報いとの関係を問いかけました。

彼の童話の代表作は、『銀河鉄道の夜』、『注文の多い料理店』、『風の又三郎』などです。

『銀河鉄道の夜』:主人公のジョバンニが友人カンパネルラとともに銀河の旅に出る物語。旅に出て、ジョバンニは自分の生きる意味や、みんなの本当の幸いとは何かを考えるようになります。宮沢賢治の最も有名な作品で、銀河の美しさとジョバンニの孤独が重なって不思議な神秘性を帯びています。

『注文の多い料理店』:山奥で狩りを楽しむ残酷な紳士たちが、山猫たちが経営する西洋料理店で、山猫たちに食べられそうになるという物語。資本主義や帝国主義の弊害を風刺した作品です。

『風の又三郎』:風の神ではないかと言われる三郎という不思議な子どもの物語。強い方言と民話的な内容が特徴的な作品で、賢治の故郷・岩手県の雰囲気を感じられます。

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「風の又三郎」は、転校してきた不思議な少年・三郎に対する、地元の子供たちの親しみと恐れが混じった気持ちを描いた童話です。三郎は風の神の子・風の又三郎だと噂され、強い風とともに現れたり消えたりします。三郎と山や川で遊んでいても、不思議な出来事ばかり続きます。三郎の見た目も相まって、風の又三郎である疑念は深まるばかりですが、結局、謎は解けぬまま、三郎は嵐とともに去っていきます。
「風の又三郎」のテーマは、異質なものを嫌う人と自然との関係です。三郎は異質な存在であり、地元の子供たちからは排斥されたり、興味本位に見られたりします。三郎は、風の又三郎という伝説の存在と重ねられ、風や動物や植物と仲良くなりますが、実際には風の精ではなく、自分の居場所を見つけられない孤独な少年でしかないのです。

でも、「誰にだって居場所はある、気持ちはどこかで通じ合っている」と思います。だから、そういう話にアレンジしてみます。

「風の又三郎(旅立ち)」

ドッ ドッ ドッ ドドド ドドと、風が吹くたび、子供たちは又三郎のことを懐かしく思い出しました。

転校してきた三郎は、真っ赤な髪の不思議な少年でした。強い風とともに現れたり消えたり、山や川で三郎と遊んでいても不思議な出来事ばかり続くので、三郎は風の神の子・風の又三郎だと噂されました。でも、実際の三郎は風の子ではなく、自分の居場所を見つけられない孤独な少年でした。
ある日、三郎は教室の片隅に、灰色の髪をした少女を見つけました。「やっと逢えた」と、少女は三郎の席までやって来ると、三郎の手を取って、「外に出よう、誰も気付かないから大丈夫」と言いました。誘われるままに、三郎は少女に手を取られて、町外れの花畑までやって来ました。少女は三郎にどの花が好きかを尋ねます。花畑には色とりどりの花が咲いていますが、三郎の好きな色の花はありませんでした。

「ごめんなさい。僕は花よりも風のほうが好きです。風の色は、空と雲と星と月と、いろんな色が混ざって、きれいだから」
「私もあなたの色が好き。あなたの色は、風と花と涙と笑顔と、いろんな色が混ざって、きれいだから」

と少女が答えたそのとき、強い風が吹きました。気がつくと、三郎と少女は、花畑の波を渡る風の絨毯にのって、川を渡り、山を超えて、空まで舞い上がっていました。空は風にのって飛ぶタンポポの綿毛でいっぱいでした。

「君は誰なの?」空に舞い上がった三郎が訊ねます。
「私は風の子、あなたが大好き」と少女が答えます。

ちょうど空に虹がかかっていました。少女と三郎は風の絨毯からおりて、手をつないで、虹のうえを歩きはじめました。三郎が虹を歩いて渡る姿は、教室の窓からも見えました。子供たちは目を輝かせて、やっぱり風の又三郎だったんだと声をあげました。でも、三郎は二度と教室に戻ってきませんでした。

自然と人との恋を通して、自分の色や友情、夢や希望を見つけたという、旅立ちの話にしてみました。

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宮沢賢治の童話は、言葉が美しくわかりやすく、豊かなイメージに満ちています。彼は多くの造語や擬音語、詩的な表現や比喩を使って、独自の世界観を表現するとともに、繰り返し、対話などを用いて、リズムや響きも重視しました。また、物語にはメッセージ性が強く、自然や動物への愛や尊重、自己犠牲や友情、優しさや思いやり、平和や正義などのテーマが盛り込まれています。

自分は秘かに、もし、宮沢賢治が現代に生まれていたら、ラッパーになっていたのではないか、と思っています。ラップとは、ビートにのせてリズミカルに話すように歌う独特の歌唱法です。ラップには、韻(ライム)を踏むことや、歌い方を変化させること(フロウ)、即興で歌詞を作ること(フリースタイル)などの特徴があります。
宮沢賢治の童話も、言葉の音やリズムにこだわり、独自の表現や造語を使ってメッセージを伝えます。韻を踏んだ詩のような表現やリズムが多く用いられ、ラップのように反骨精神や正義感が強く、何かを考えさせる作品が多いです。

それでは、もしも、三郎がミュージシャンになって戻ってきたら、どんな詩を歌うのでしょうか。ラップもまぜてアレンジしてみました。

「帰ってきた又三郎」

ドッ ドッ ドッ ドドド ドドド 
吹き飛ばせ 
ドッ ドッ ドッ ドドドドド
飛ばせ 飛ばせ 吹きとばせ

俺は 雨にも負けねぇ 風にも負けねぇ
暑さも 寒さも 関係ねぇ

俺は 自由 体は丈夫 欲もねぇ
俺は 幸福 苦しいときも 楽しいときも 笑ってる
俺は 平和 叩かれても笑う 風に吹かれて 笑ってる
イエーィ

俺は 謙虚 自分のことは 考えない
俺は 賢い すべてを分かって 忘れない
俺は 自然 松林のボロ屋で 一人暮らしてる
イエーィ

東に西へ 南に北へ みんなのために駆け回る
ヒャッホー イエーィ

俺は 感動 涙を流し オロオロ歩き
俺は 愛情 みんなの幸せ 祈ってる
俺は 寛容 シカトされても 気にしない
イエーィ

ドッ ドッ ドッ ドドドドド

何もないが なくもない
分かる人もいりゃ 分からない人もいる
それ当たりまえ でも それでいい

卑屈にならねぇ 誰にも媚びねぇ 嫉みもしねぇ
ただ 道 歩いていく それが俺
空は空 俺は俺 風は風 道は道 
そういう奴でかまわない

ドッ ドッ ドッ ドドドドド

俺は 聞けるよ 空の声
俺は 知ってる 雲の声
俺は 分かるよ 動物の声
俺は 愛おしい 植物の声
俺は 聞けるよ 星の声
俺は 知ってる 夜の声
俺は 分かるよ 海の声
俺は 愛おしい 風の声

イエーィ 

(コーラス)

ラーラーラー ラーラーラーラー ラーラーラーラー
ヘイ 又三郎
ラーラーラー ラーラーラーラー ラーラーラーラー
ヘイ 又三郎

負けない 負けない 笑ってる イエーィ

ラーラーラー ラーラーラーラー ラーラーラーラー
ヘイ 又三郎

負けない 負けない イエーィ 踊ってる


P.S. 「雨にも負けず」「注文の多い料理店」

「雨にも負けず」は、宮沢賢治が1933年に37歳で亡くなった後に、遺品の手帳から発見されました。この詩は自分の理想の人生を描いたもので、自分を律し、他人に優しく、困難にも負けないという生涯の願いが込められています。この詩は、カタカナと漢字で書かれていますが、これは当時の小学校でカタカナが先に教えられていたことに由来します。カタカナで表記することで、言葉の響きやリズムが強調されています。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩


「注文の多い料理店」は、宮沢賢治の代表作の一つで、1924年に出版された短編集『注文の多い料理店』に収録されている童話です。

あらすじ:

山奥で狩りをしようとした二人の若い紳士は、獲物も見つからず、案内役の猟師ともはぐれてしまいます。連れていた犬も死んでしまい、帰り道もわからなくなります。そんなとき、西洋料理店「山猫軒」という看板を見つけ、入ってみることにします。店の中は扉で仕切られた廊下になっており、扉ごとに客に様々な注文を求めるメッセージが置かれています。紳士たちは、注文の多い料理店というのは人気のある店だと思い込み、メッセージに従って進んでいきます。

「注文の多い料理店」の扉ごとのメッセージ

- 最初の扉:「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」
- 二番目の扉:「髪をとかして、履き物の泥を落とすこと」
- 三番目の扉:「金属製のものを全て外すこと」

(中略)

しかし、最後の十四番目の扉には「お気の毒でした。もうこれだけです。からだ中に塩をたくさんよくもみ込んでください」と書かれており、紳士たちは自分たちが食べられようとしていることに気づきます。向こう側には山猫の親分と子分たちが待ち構えています。紳士たちは絶望しますが、死んでしまったはずの犬が助けに来て、山猫たちを追い払います。紳士たちは案内役の猟師と合流し、山鳥を買って東京に帰ります。しかし、一度紙くずのようになった顔は元に戻りませんでした。

テーマ:

この童話のテーマは、資本主義や帝国主義の弊害を風刺したものと考えられます。紳士たちは、イギリスの兵隊のような服装や鉄砲を持ち、狩りを楽しむという残酷な娯楽をしています。彼らは犬の死や自然の美しさにも無関心で、金銭や食事のことしか考えていません。
一方、山猫たちは、紳士たちを食べようとするという野蛮な行為をしていますが、それは彼らの生きるための必要なことであり、紳士たちのような無駄な殺生ではありません。山猫たちは、紳士たちの欲望や無知を利用して、彼らを罠にはめます。紳士たちは、自分たちが上位にあると思い込んでいましたが、実は山猫たちに支配されていたのです。
この物語は、賢治が生きた時代の日本が、西洋の文明や軍事に追随していたことへの批判とも読めます。また、紳士たちが山猫たちに食べられそうになったときに、死んだはずの犬が助けに来るという展開は、賢治の信仰する仏教の因果応報や輪廻転生の思想を反映しているとも言えます。紳士たちは、犬に対して無情でしたが、犬は紳士たちに対して慈悲を示しました。紳士たちは、犬の命を救えなかったことが原因で、自分たちの顔を失ってしまいました。この物語は、人間と自然との関係や、善悪と報いとの関係を問いかけるものとなっています。

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