ローマ12:9-16 愛は偽善ではない

逐語訳

9 その 愛は 演技ではない. 憎み退ける者たちは その 邪悪なを, 膠着される者たちは その 善いを,
10 その 兄弟愛に 中へ 互いを 親愛の情を持つ者たちは, その 評価に 互いに 先導する者たちは,
11 その 熱心に (主観として)ない 臆病な者たちは, その 霊に 沸騰する者たちは, その 主人に 奴隷として仕える者たちは,
12 その 希望に 喜ぶ者たちは, その 患難に 耐え忍ぶ者たちは, その 祈りに 固執する者たちは,
13 その 欠乏に その 聖なる者たちの 共有する者たちは, その 見知らぬ人を 追い求める者たちは.
14 あなた方は祝福せよ その 追い求める者たちを 〔あなた方を〕, あなた方は祝福せよ そして何より (主観として)ない あなた方は呪え.
15 喜ぶこと 共に 喜んでいる者たちの, 泣くこと 共に 泣いている者たちの.
16 その 同じ事を 中へ 互いに 思う者たちは, (主観として)ない その 高慢な事柄を 思う者たちは むしろ その 低い事柄(者たち)に 共に運び去られる者たちは.(主観として)ない あなた方はなれ 思慮深い者たちは 所で あなた方自身に.

私訳

9 愛は偽善ではない。邪悪な事を憎み退け、善い事を密着させ、10 兄弟愛については互いに親身な愛情を抱き、敬意については互いに率先し、11 熱心さについては臆病ではなく、霊については沸騰し、主については奴隷として仕え、12 希望については喜び、患難については耐え忍び、祈りについては専念し、13 聖者たちの欠乏については分け合い、見知らぬ人を追い求める。14 迫害する人々を祝福せよ。祝福するのであって、呪ってはならない。15 喜ぶ人々と共に喜び、泣く人々と共に泣くように。16 互いに同じ事を思い、高ぶった事柄を思わず、むしろ謙った事柄に同調するのである。自分自身から見て思慮深い者となるな。

9節

「愛」 アガペー 愛がどのようなものかを使徒パウロは続く聖句で説明する。
「偽善ではない」 アニュポクリトス 演技ではない 古代ギリシャの俳優は仮面を付けて演じたことから、見せかけの善行を指す言葉となった。パウロによれば本当の愛は見せかけのものではない。
「邪悪な事」 ポネーロス 邪悪な カコスは一般的な広い意味で「悪い」。ポネーロスはポノス「苦労」を語源とし、元来は「労苦によって圧迫されている」ことを表す。
「憎み退け」 アポストゥゲオー <アポ(強意・離れて)+ストゥゲオー(忌み嫌う) アポを強意的意味と捉えれば「激しく憎む」、分離の意味と捉えれば「憎み退ける」(口語訳)。ここは「密着する」と対比されているから口語訳を支持する。尚、9-13節に一つも定動詞はなく、分詞である。よって命令形とは言えない。
「善い事」 アガソス カロスは見た目が良いにも用いられるが、アガソスは質的に良いこと。良い、善い、有能、立派、価値ある等。
「密着させ」 コッラオー 膠着する 原意は膠(にかわ)がくっついて離れないこと。親密になるという意味もある(口語、新改訳)。夫婦が「堅く付く」も同じ語(マタイ19:5)。尚ここは受動相なので「密着される」。

10節

「兄弟愛については」 フィラデルフィア <フィロス(友愛)+アデルフォス(兄弟) 「友愛」を意味するフィロスと「兄弟」を意味するアデルフォスの合成語。ここから以下、与格の名詞が語頭で連続するが、全て「~については」と訳した。
「親身な愛情」 フィロストルゴス <フィロス(友愛)+ストルゲー(家族愛) フィロス(友愛)とストルゲー(家族愛)の合成語。新約においてここにしか登場しない。兄弟愛にフィロストルゴスを加えよと述べているのだから、仲間を家族として見なし、親身になって接するべきことを教えている。
「敬意については」 ティメー 元来は「評価」を意味した。尊敬、敬意。
「互いに率先し」 プロエーグマイ 前を行く、先導する フィリピ2章3節の同様の用法からすると、相手を自分より前と見なす(上と見なす)という意味か。

11節

「熱心については」 スプーデー 熱心、熱意
「臆病ではなく」 オクネーロス 臆病な、尻込みさせるような 新改・新共同訳などは「勤勉に怠らず」。しかし、ここはむしろ宣教する上での熱意があれば、人々への怖れなどによって臆病にならず大胆に語ることができるの意味と私は解する。こちらの解釈の方が原意なので素直。
「霊については沸騰し」 ゼオー 沸騰する 「沸騰する」が原意。意訳して「霊に燃える」。
「主については奴隷として仕え」 ここの主(キュリオス)が神を指すのか、一般的な意味での奴隷の主人を指すのか、意見が分かれる。またドゥーレイオーという語は「奴隷として仕える、奴隷身分に甘んじて服従する」の意。

12節

「希望については喜び」 希望(エルピス)は喜び(カイロー)をもたらす。この希望とはキリストにより「神の子の栄光ある自由」を得ることを指す(ローマ8:18-25参照)。
「患難については耐え忍び」 ヒュポメノー <ヒュポ(後に)+メノー(留まる) 自分の場に堅く踏み留まる、持ちこたえる、という意味での忍耐。
「祈りについては専念し」 プロスカルテレオー <プロス(接して)+カルテロス(不動の) 原意は「固執する」。

13節

「聖者たちの欠乏については」 クレイア 必要、不足、欠乏 「欠乏」は複数形。聖者たちは油そそぎを受けたクリスチャン全員を指す。聖者たちの中で欠乏(経済的に困窮している)人がいれば、援助しなさいということ。
「分け合い」 コイノーネオー 共有する、分け合う しかし、初期クリスチャンが共産主義社会を形成していたと見なすべきではないだろう。使徒2章44節、4章32節などで同語根のコイノス(共有)が用いられているが、私有財産権がなかったわけではなく、むしろ私有財産の自発的寄付であった。またパウロはローマ15章26節においてコイノーニアを用いているが、これもエルサレム会衆への自発的寄付を指していると思われる。
「見知らぬ人を追い求める」 フィロクセニア 原意「見知らぬ人」。口語・新改・新共はいずれも「旅人」と訳出しているが、旅行に来た人だけを指した訳ではなく、市民権を持っていない人全体を指す。こことヘブライ13章2節にしか出てこない。「追い求める」(ディオーコー)は次節の「迫害する」と同じ語であるが、ここでは悪い意味ではない「追い求める」。ヘブライ13章2節のフィロクセニア(見知らぬ人)の用法を考えると、ここは見知らぬ人をもてなすことを追い求めよという意味か。

14節

「迫害する人々を祝福せよ」 エウ(よい)+ロゴス(言葉) 誉める、祝福する 「あなた方を」を入れている写本がある(シナイ写本、アレクサンドリア写本など)。一方入れていないのはパピルス46、バチカン写本など。いずれも最重要写本だが、パピルスは大文字写本より古い写本なので、入れていない方がやや優勢。14節は定動詞の命令法。
「祝福するのであって、呪ってはならない」 迫害者を祝福することだけは二度強調しているので、クリスチャンにとっても実践が難しいことだと分かる。

15節

「喜ぶ人々と共に喜び」 15節だけは不定詞である。命令的不定詞と思われる。
「泣く人々と共に泣くように」 感情の一体化、共有化を愛と結び付けている。同じ概念が16節においても続く。

16節

「互いに同じ事を思い」 再び分詞。ここでは「同じ思い」が「高ぶり」と対比させられているので、信仰に関して一致しているべきことを指すのかもしれない。パウロは分派や分裂を厳しく批判した(コリ一1:10)。しかし、第一義的にはローマ11章13-36節の記述を指しているとも考えられる。
「高ぶった事柄を思わず」 ヒュプセーロス 「高慢」という意味で使われているのはルカ16章15節、ローマ11章20節とここだけ。
「謙った事柄」 タペイノス (身分の)低い、(態度の)低い この形容詞は語形では男性形でも中性形でもあるので、「低い人々」とも「低い事柄」とも取れる。どちらかはっきりしない。さらに、「低い」も身分が低いのか態度が低いのかはっきりしない。新改・新共同訳は「身分の低い人々」と解釈している。私は「むしろ」(アッラ)で「高ぶった事柄」と対比されているので「謙った事柄」と訳した。
「同調する」 シュナパゴマイ <シュン(共に)+アポ(離れて)+アゴー(導く) 動詞の意味ははっきりしない。聖書中には他にガラテア2章13節とペテロ第二3章17節にしか登場しない。原意は「共に運び去られるままになる」。目的語が人ならば「(相手と同じ所まで行って)交わりを持つ」、目的語が物ならば「(何かをするに当たり)同じように行なう」。
「自分自身から見て思慮深い者となるな」 フィロニモス <フィロネオー(思う) 思慮深い ローマ11章13-36節では、「高ぶったことを思わず」(20節)、「自分自身から見て思慮深い者とならない」(25節)というように同じ語句がある。そこは接ぎ木されたことが自分たちの義でなく神の憐れみによることを知れば、高ぶる事はできないという趣旨。

要点・黙想

愛は偽善ではない。愛は見せかけでもない。確かに愛は実行されないままならば偽善である。愛は行動によって知られる。愛は悪を憎み退ける。悪を許容することは愛ではない。反対に善に密着する。悪から離れ、善に密着する。兄弟愛とは、家族の一員として親身になって接すること。尊敬されることを相手に求めるのではなく、相手を尊敬するなら、敬意は自ずと帰って来る。愛に熱心であれば、人への恐れを克服できる。愛は霊を沸騰させる。愛は霊的な主であっても、肉的な主人であっても、心から仕えようとする。愛は喜びある希望を伝え、消極的ではない。患難にあっても自分の立場(神との関係)を捨てない。愛は祈りに専念することによって、純粋な願いを保つ。仲間が窮乏しているなら、進んで分け合い、見知らぬ人をもてなすことを追い求める。迫害されても祝福し、決して呪わず、幸せを願う。喜びや悲しみを共にし、同情し、感情移入を示す。自分の目から見て賢い者とはならず、へりくだった人々と同じ考え方をする。これが神の愛。神の示される愛。できていないことばかりだが、成長できるように一つ一つ努力したい。神の言葉がいつも私を正してくれることに感謝。

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