芸術論

※以下は先日CHで芸術論をテーマに意見交換した際に私が発言した意見を、さらに整理して書き上げたものである。


はじめに私なりの芸術の定義を書く。それは「人間の持つ記憶/知識のシステム/制度に基づいて、その各々が指し示す対象領域の記憶=文脈に応じて、ある対象の持つ新鮮さ(対象の持つ多義性の新たな観点)を、作品によって表現また問題提起すること」である。

ある対象がある。認識主体はある対象の全体ではなく、ある観点を志向的に認識する。そして認識した観点は知識として記憶される。記憶は知識の可塑的な蓄積であるが、知識は忘却することもある。これは人間に共通する認識の構造であり、ここではこれを「人間の持つ記憶/知識のシステム/制度」と見なす。

私は、この記憶こそが芸術の「文脈(コンテクスト)」になると考える。記憶には「蓄積」と「忘却」の仕組みがある。ひとまず、記憶の文脈に新たに観点が追加(蓄積)される形式の芸術を「現代美術的な芸術鑑賞」、記憶の文脈から忘却されていた観点を思い起こす形式の芸術を「古典的な芸術鑑賞」と捉えよう。

芸術における文脈には二つのパターンがある。一つは、個人の主観的な記憶の文脈に基づく芸術体験。もう一つは、二者以上の共同体における間主観的な「知識の体系」に基づく芸術体験である。後者においては知識の体系が記憶に相当する。

しかし、実際には芸術の共同体における間主観性はそれほど厳密に定まっていない。芸術家ごと、批評家ごと、鑑賞者ごとに芸術観は異なる。なぜなら、知識の体系の記憶は人それぞれ異なるからである。数学・科学的な公理系とは異なり、作品や歴史といったものはデリダ的なエクリチュールであるから正しい読み(解釈)を阻害する。また、単純に観たり研究してきた作品の数も人それぞれだし、人は経験/学習した知識を記憶の中から忘却する。そうした構造により、芸術において厳密な間主観性というのは担保できないのである。

また、芸術の文脈は個人レベルのもの、二者間のもの、それ以上の集団的なもの、例えば日本美術史的なアートワールド、西洋美術史的なアートワールド、もっとグローバルなアートワールドなど、その文脈が指し示す「対象領域」はいくらでも設定可能である。しかも、それはある個人が言葉をもって指し示すその度ごとに変化するだろうし、同じ議論の場で話し合う時でさえそれぞれが指し示す対象領域は完全に一致することはない。

したがって、芸術という語が使用される時、"人間の持つ記憶/知識のシステム/制度"に基づく何らかの文脈がその対象領域の知識の体系となっているのは事実だが、その文脈=知識の体系は完全な間主観性を持ってはおらず曖昧なのである。ただ知識が間主観的に重なり合うその部分においては一致する。

ある対象領域における意味の正しさは「規則」によって規定される。では、芸術における規則とは何か。それは「新鮮さ」である。ここで述べる新鮮さとは、"対象の持つ多義性の新たな観点"である。対象には汲み尽くせない多義性がある。その対象を柔軟で多角的な視点によって分析し、その新たな観点にスポットライトを当てて浮き彫りにすることで、世界の視野は広がりを見せる。したがって、対象の新たな観点を作品によって表現したもの、あるいは既存の観点そのものを問題提起したものかどうかが、芸術という対象領域における規則となる。

しかし、これが芸術の規則だとすると、インテリ層の知的な「現代美術的な芸術鑑賞」だけが芸術になってしまうのではないか、と思われるかも知れない。庶民の素朴な芸術体験や、「古典的な芸術鑑賞」はもはや芸術の価値を失ったのだろうか。そんなことはない。

デュシャン以降の芸術作品は確かにエクリチュール(本質はなく、ただ多様な解釈があるもの)ではあるが、アウラ的な感動は残り続ける。というのは差異と反復の理論によれば、永劫回帰する意識/認識は微妙な差異をもって反復されるから、その瞬間瞬間においては一回きりの体験であり、一回性(アウラ)を持っている。だから主体者がエクリチュールとしてのどんな作品に対峙するとしても、対峙する度に異なる印象や気づきを得るものなのである。

ここで「感動」とは何かを考えたい。感動は"アウラ的な一回性の体験の中で起こる情動"であり、それには"人間の持つ記憶/知識のシステム/制度"に基づくと二つのパターンが考えられる。一つは、"新たな観点を新たに知った時に起きる情動"(「発見的情動」)。もう一つは、"忘却していた観点が呼び覚まされる時に起きる情動"(「想起的情動」)、である。記憶から呼びさまされることは、一瞬一瞬の一回性の体験の中では"新鮮な"体験でもあるのだ。

"新たな観点を新たに知った時に起きる情動"(発見的情動)は記憶の蓄積的なものであり、基本的に「現代美術的な芸術鑑賞」に属するし、
、"忘却していた観点が呼び覚まされる時に起きる情動"(想起的情動)は忘却からの復活だから基本的に「古典的な芸術鑑賞」に属する。したがって、この定義によれば、現代美術にも感動の要素はあると言えるのである。そしてそれは"理知的な感動"と言える。一方、古典的な芸術鑑賞においては、作品の理知的な価値(新鮮さ)はすでに失われているが、現代的な日常生活を送る中で忘れかけていた感覚や理解が呼び覚まされる形で感動に至るのである。

古典的な美学(いわゆるロマン主義的な感動)は調和の完全性の体験のことだが、それは日常生活では忘却されていた完全な調和が一時的に対象の中で想起されることで感極まるのである。

また、芸術の文脈は西洋美術史のアートワールドとしての対象領域だけではなく、様々な境界(ただしその境界線は曖昧)を指し示すことが可能なのだから、例えば個人レベルにおける芸術鑑賞において、西洋美術史の知的な文脈の中では既に古典的なものであったり、ありきたりな素朴な表現であっても、その個人にとっては初体験である場合はそれは発見的情動となり、その文脈(記憶)に追加(蓄積)される。また、忘却していた感覚を思い起こさせられる時には想起的情動となる。自分が無自覚に感動するその時でさえ、無自覚に自己の中の記憶=文脈を参照しているのである。

あるいは、西洋美術史のアートワールドとしての対象領域以外の共同体における文脈の中では既に古くから知られていた表現だったとしても、西洋美術史のアートワールドの文脈にとっては新鮮である場合は、それは発見的情動として新たに取り込まれる(逆輸入される)こともある。

あるいは、個人が何かの作品を作った時、それはアートワールドの文脈においては素朴過ぎる表現であり、その文脈に追加されることはなかったとしても、その作者にとっては新鮮さをもたらす表現であったなら、それはその作者にとって芸術運動だったのである。

あるいは、その表現がアートワールドにとっては使い古された表現や手法であったとしても、それを大勢の人々が忘却しているが故に、あえてその表現や手法を用いることで、人々に大事な観点の記憶を再び呼び起こさせるという表現も芸術として認められよう。

このように記憶の蓄積と忘却に関して思弁することによって、芸術のハイアート(理知的で学術的な文脈のアート)に対するローアート(素朴で世俗的な個人的なアート)の優位性、また古典的な美術鑑賞に対する現代美術の優位性は、脱構築されると言えるのではないか。芸術の創作と鑑賞は全ての人へと開かれる。

最後にもう一つ、芸術の社会性について考えたい。芸術表現は社会問題をテーマにして社会変革をもたらすものであるべきという考えと、芸術のための芸術であるべきという考えの対立が存在する。私の芸術の定義と規則によれば、対象の多義性の中から新たな観点を浮き彫りにすることが必要であるが、それは言わば、今まで価値がないと思われてきたものや、見過ごされてきたもの、覆い隠されてきたものにスポットライトを当てて、芸術的な表現形式をもって表現すること、あるいは既存の見方に対する問題提起をするものでもある。

それはある意味で、デリダ的な社会正義(メシアなきメシアニズム)にも相当する。であるならば、当然に社会問題をテーマにした作品も芸術に内包されると言える。とはいえ、それだけが芸術であるのではなく、あるアートワールドの文脈の中での新しい視点という意味での芸術もやはり芸術に内包されると言える。

逆にコードの逸脱としての芸術も、それが今まで価値がないと思われてきたもの(=タブー)に価値を付与するという意図を持つ表現であるならば、それもやはりその人にとっては芸術運動であるから、芸術に内包されていると言える。しかしそれが社会(他者)の間主観的な文脈において倫理的に受容されるかどうかは別問題である。倫理的に逸脱した芸術は芸術ではないという見解があるが、それは芸術の営みを神聖化し過ぎと思われる。科学と科学の倫理は別の問題であるのと同じように、芸術と芸術の倫理は別の問題である。

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