『ヨナ書』考察

ヨナは"鳩"という意味だが、これは聖霊を暗示しているのだろうか。前半のヨナ自身はキリストだと思う。イエスは嵐の中の船内でも寝ていたが、ヨナもそうだった。弟子たちはイエスを起こして助けを求めた。船員たちも同じようにヨナを起こした。

彼らは嵐の原因となった罪人を決めるためくじを引いた。ローマ兵がイエスの衣をくじで分けるかのように。そしてヨナを海に放り投げ、生贄とした。イエスを十字架につけたように。そして「無実の私たちに責めを負わせないでください」と彼らは神に言う。パリサイ派のように。

神を深く信頼するヨナが海に落とされると、嵐は止んだ。このヨナの象徴的な死により船員たちの命は救われた。イエスの贖罪のように。ヨナは三日三晩、大魚の中にあった。イエスも三日三晩シェオルに呑み込まれた。頭に水草が絡みつく。茨の冠ではないが。

ヨナは祈りの中で神を信頼する。そして大魚は彼を吐き出す。イエスがシェオルから復活したように。その後、ヨナはニネベに向かい、ニネベの滅びを宣告する。後40日でニネベは滅びると。イエスが活動してから40年後の西暦70年にエルサレムはローマによって滅びた。

ニネベはエルサレムの象徴か。しかし、エルサレムとは異なりニネベの住民は改心した。これはエルサレムの裁きと共に異邦人の救いを二重に暗示する。しかしヨナはこれに怒った。これは第一にユダヤ人の心境か。神はエルサレム(ユダヤ)を捨て、ニネベ(異邦人)を救うのかと。

ヨナは仮庵を立て、ニネベの滅びを遠くから伺った。するとひょうたんが生えてきてヨナを陽射しから守った。しかし虫がこれを食い枯らす。ヨナはひょうたんのことを惜しんだ。同じように、神は12万人ものニネベの人々と家畜を惜しんだ。12とはイスラエルを象徴する数だ。これは神がニネベだけでなく、イスラエルも惜しまれることの二重の暗示か。

仮庵は神の方舟、つまりイスラエルを表し、ひょうたんは異邦人を表す。神は異邦人だけでなくイスラエルも共に救われる。初めに嵐の中の船(方舟)の船員たちを救ったように。神の目からはどちらも同じ生命だからだ。エルサレムとニネベの裁きと同時に、エルサレムとニネベを共に救うことをも暗示する。これが聖霊(鳩)の書か。

また、仮庵は本物が到来するまで人々の霊性を守るための律法を表し、一夜のうちに育ち一夜のうちに枯れたひょうたんは人間の心を即席的に癒す肉の欲望をも表しているか。地の宝は蛾や錆びが腐らせるとイエスは述べた。肉(ひょうたん)を惜しむのなら、私も肉(ニネベ)を惜しむと神は言う。もちろん神は嵐の中で船(律法の保護)に乗った人々も救ったのだからイスラエルも惜しまれる。

ヨナはなぜ反対方向に逃げたのか。神の憐れみを知っていたからだ。彼は異邦人を裁くことを拒んだ。彼はユダヤから離れてヨッパからタルシシュ(ローマ方面)へ向かった。ヨッパといえば、使徒の異邦人への福音伝道の基点となる。ドルカス、シモン、コルネリオなど。そしてローマは使徒パウロが到着した最終地点だ。

だから、これはイエスが異邦人への裁きを控え、福音をローマへもたらしたことを表すか。これにより船が嵐となったのは、律法(霊的保護の象徴)が揺らいだからか。そしてこの罪の責めを人々はイエス(ヨナ)に負わせ、生贄とした。本当は自分たちも罪人なのに、無実を主張しながら、身代わりとして。

しかし、この行為により嵐は止み船は助かった。それは船員たちの義ゆえでなく、ヨナの言葉の義ゆえだった。彼は自分を海に投げるなら嵐は止むと言ったから。ヨナは神を信頼していた。だから船でも冷静だった。神の憐れみを特に信頼していた。私は、私の誓約を果たしますと。それゆえヨナは三日後に復活した。神の義ゆえに人々は救われた。

ヨナは今度はニネベに向かい、ニネベの滅びを告げた。40年後にこの都市は滅びると。イエスがエルサレムの滅びを告げた時のように、イエスを継ぐ使徒たちもこれを告げた。エルサレムは確かにローマにより滅びたが、ニネベはむしろ改心した。ニネベの人々がイエラエルを裁くことになるだろうと、イエスは言われた。これがヨナのしるしだと。

その通り、異邦人は主を信じたが、イスラエルは信じなかった。それゆえエルサレムは滅びた。ではなぜヨナは怒ったのか。せっかく滅びを告げたのに救われたからだ。エルサレムは確かに一度滅びた。しかし、神がエルサレムを忘れることがあろうか。

仮庵とひょうたんの比喩は先も述べた通り。エルサレムは滅びたままでいることはない。パウロもそうローマ書の中で預言している。イエスの意志を継ぎ、使徒を継ぐ、キリスト者たちは、その時に怒りに燃えるだろうか。なぜ、ユダヤが改心し、救われることがあっていいのかと、差別心を露わにし、今までの伝道が水の泡だと思うだろうか。

しかし、私たちが己の一時の疲れを癒す水が無くなるのを惜しむように、神がエルサレムを惜しまぬはずがあろうか。そう神は諭しているのではないか。神の滅びの宣告は、最終的には救いへと繋がるとしたら。それが奥義だとしたら。

自分たちはこれまで正しく信じて生きたのに、神が言われた通りに世の滅びを宣告してきたのに、悪人の彼らも最終的に救われるのは不公平だ、彼らを地獄の火で燃やして下さい、彼らを裁くから告げよと言ったのは神ご自身なのに。こうなるのが嫌だから、あなたの憐れみ深さを薄々分かってたから、私は裁きをふれ告げたくなかったのに、と怒りに燃えるだろうか。

神が裁きを告げよ、と言われた。その裁きを告げるのは正しい。だが、神が憐れみ深く、彼らを最終的には救いに導いたとしたら、神の言葉通り、裁きを告げたことを後悔すべきだろうか。反対に、裁きが実際になされなかったことに対して不平をもらすべきだろうか。

いや、キリスト者は、神の憐れみを深く信じ、かつ神の言葉を曲げずに告げつつ、神の憐れみが到来することを喜ぶべきだ。聖なる霊によって。

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