『コリント人への第一の手紙』の要約


概要
パウロが第三回宣教旅行中エフェソスでコリント教会へ向けて書いた手紙。55/56年。

第一章
パウロとソステネスからコリント教会への手紙。全てのキリスト者へ向けて書かれているので諸教会への公開文書だろう。パウロが口述したものをソステネスが筆記したのかもしれない。クロエーの家の者による報告によれば、コリント教会では分派争いが生じていた。そこでパウロが愛によって一致するよう呼びかけるのがこの手紙の主題である。そこでパウロは何度も人間を誇らず神を誇るよう訴える。まず、人々にとってキリストの十字架の話は、ギリシア哲学などの人間的な知恵ある言葉に比べると、愚かな話に思えるという点を指摘する。しかし、それは此の世的に弱く貧しい人々を高め、此の世的に賢く富む人々を低めるための神の方法であった。こうして一切の者が神だけを誇るようにされたのである。

第二章
パウロはコリント人へ伝道する際、十字架にかけられたイエス・キリスト以外には何も話さず、人間的な知恵の議論によって説得はしなかった。むしろ、聖霊の働きを示すよう徹した。それは彼らが聖書に通じておらず、聖書に秘められた神の知恵を認識する力がまだなかったからである。一方、霊的に成熟した者たちには聖書に秘められた神の知恵を語ることができる。霊的な人は聖霊に導かれつつ、それを霊的な言葉である聖書と照らし合わせて、神の知恵を学ぶ。実のところ、神のことは神の霊によってしか知り得ないからである。

第三章
しかし、コリント教会の人々は霊的に成熟しているとは言い難かった。彼らの中で分派争いが見られたからである。そこでパウロは、人間の奉仕者は教会を世話するための同労者に過ぎず、実際に教会を成長させるのは神御自身であることを思い起こさせる。しかし、教会を立派に建てるためには、各人が霊的に賢くある必要がある。パウロがキリストという信仰の土台を霊的に賢い仕方で据えたように、その土台の上に教会という建物を建てる各成員も、主の日(終末)に耐え得る信仰をもって建てなければならない。そのために人間的な見方や知恵を捨て去り、聖書から学んで神の知恵に精通し、神のみを誇って霊的に一致しなければならない。他方、教会の中に神の霊が住んでいるので、それを打ち壊そうとする迫害勢力もまた滅びる結果となる。

第四章
パウロ、つまり使徒は、神の秘義の管理人(家令)である。何故なら、コリント教会の成員は使徒パウロから信仰の土台となる部分を学んだからであり、いわばパウロはコリント教会にとって霊的な父親であったからである。しかし、人間にとって愚かな神の知恵を語る使徒たちは、此の世的に賢い人々によってくずのように見なされている。けれども、霊的な子は父親たる使徒パウロに見倣わなければならない。パウロは自分が諸教会で教えている指示を与えるために、また恐らくこの手紙を届けるために、テモテをコリント教会へ遣わそうとする。しかし、実際にはコリント教会からの報告はテトスからもたらされたので、恐らくテモテのこの訪問は短期間であった。

第五章
淫行者の処罰について。コリント教会では淫行者が正しく審理されなかったために、裁判沙汰に至りかねない事件へと発展していた(6章)。パウロはこの審理問題を自ら裁き、その淫行者を教会から追放するよう命じる。それは教会を清く保ち、彼らが主の日に救われるためである。少しの腐敗を放っておくと、教会全体に飛び火するからである。またパウロは以前にもコリント教会へ手紙を送っていたことを明らかにしている。キリスト者は外部の者を裁く権限はないし、此の世の人々と接することを避けるべきでもないが、教会内部の問題を裁く務めがあり、不道徳な兄弟とは交わることを避けるべきである。

第六章
コリント教会で実際に裁判沙汰になったかどうかは不明であるが、パウロは教会内部の問題は裁判沙汰にするのではなく、教会内部で正しく裁かれるべきであると告げる。何故なら、キリスト者は天へ復活した後王なる祭司となり、全地を裁くことになっているので、日常的な事柄を正しく審理できないようではいけないからである。淫行を為す者は、不義な者は神の国を受け継がないということを思い起こす必要がある。また、肉的な身体は主イエスの贖いという尊い代価を払って買い取られたものであり、今やキリストの身体の肢体として各々が聖霊を受けているが故に、自分の身体を淫行に差し出すことは自分の身体を傷つける罪となる。

第七章
結婚について。パウロは淫行がはびこっている故に結婚することを譲歩しつつも、自制できるなら独身を保つことを勧めている。一方、すでに結婚している人については、主御自身の命令として離婚してはならない。しかし、パウロ個人の意見として、非信徒の配偶者が離婚を求めるなら別れてもよいが、それでも配偶者を救えるよう努めるべきである。したがって、パウロは、独身であれ、既婚者であれ、割礼者であれ、奴隷であれ、信仰に召された時の状態を保つのがよいと考える。独身者については、主ではなくパウロの使徒としての意見であるが、定めの時(主の日)が近い故に、また主のことだけに思いを集中させるために、独身を保つ方がよい。とはいえ、結婚は罪ではないので、結婚を禁ずるわけではない。さらに、配偶者が亡くなった場合は、主にある者と再婚する自由がある。

第八章
偶像に供えられた肉について。ギリシャ・ローマ文化では、一度偶像に供えられた肉が、普通に市場に売り出されていた。それについてどう判断すべきかパウロは論じる。パウロは神は唯一御父のみで、主は唯一御子のみであると述べた後、それ以外は命のない偶像であると述べる。したがって、偶像に供えられたからといって肉そのものに霊が入り込んだり変化するわけではない。だからその肉を食べること自体は別に構わないのだが、そうした上辺の知識だけでは足りないと述べる。すなわち、キリスト者は知識を愛によって用い、他の兄弟たちの良心に配慮すべきなのである。それ故、偶像に供えられた肉を食べる姿を見て、未熟な他の兄弟たちの良心が誤導されるような状況では食べないようにと命じる。この議論は第10章でも続く。

第九章
パウロは使徒として、信者たちに生活費を養ってもらう権利があると主張する。しかし、パウロは自らその権利に甘んじるのを放棄し、自活しながら宣教もした。それは、福音宣教によって生計を立てることが躓きの元となり、宣教の妨げとならないためである。さらに、宣教自体は義務であり、誇る理由とはならないが、それを自発的に行ない、且つ自活しながら無償で宣教するなら、神から報いを受けるべき誇る理由となるからである。パウロはそのようにして、あらゆる人々の心を勝ち得るために尽くしてきた。それはまさにスポーツ選手があらゆることに節制する時のような厳しい鍛錬である。しかし、スポーツ選手は朽ちる冠のために努力しているが、キリスト者は朽ちない永遠の命という冠を目指して努力しているので、曖昧で、虚しい努力ではない。

第十章
イスラエル人が約束の地へ向かって荒野を旅した記録は、キリスト者が学ぶべき予型であった。彼らは淫行を犯し、主を試み、つぶやき、その結果約束の地へと辿り着けなかった。キリスト者はそこから学んで、彼らと同じように倒れないよう気をつけるべきである。神は耐えられないような試練をお与えにはならず、必ず出口を用意して下さる。それから第8章でなされた偶像に供えられた肉についての論議のつづき。知識を愛によって用い、他の人の良心に配慮すべきというのが第8章の結論であるが、ここではより具体的に指示される。パウロは、肉自体は何も変化しないという事実を指摘しつつ、しかし偶像の祭壇で交わることは悪霊を崇拝しているのと同じであることを指摘する。よって、神殿で儀式的に祭壇と交わるような行為を禁じる。ただし、市場で売られている肉については、何も尋ねずに買って食べてもよい。さらに非信者の家に招待された際には、何も聞かれなければそのまま食べてよいが、家の人がそれは偶像に供えられた肉だと言ってくれた場合には、家の人の良心に配慮して食べるのを控えるべきである。

第十一章
頭の権威について。創造の順序として、女の頭は男であり、男の頭はキリストであり、キリストの頭は神である。すなわち、アダム(男)から先に造られ、エバ(女)はアダムから取って造られたからである。しかし、主にあっては平等である。これは女が教会で権威を持つことを許可しているわけではなく(コリ一14章)、天で王なる祭司となる特権を平等に与えられているということであろう。しかし、パウロがここで一番言いたかったことは、ユダヤの習慣通りに、女は男の前で祈ったり預言したりする時はベールを被れということである。加えて、長髪は権威に対する服従を表わすベールの代わりであるので、男は長髪であってはならない。主の晩餐について。主の晩餐の執り行い方はルカ福音書の記述とほぼ一致している。コリント教会では集会場で飲み食いをする人々がいたが、パウロは主の晩餐の時は家で食事を済ませ、よく心を整えてから与らなければならないと命じる。

第十二章
霊の賜物について。恵みの賜物や奉仕の仕事やその働き方には様々なものがあるが、それらを全て同一の霊、同一の主、同一の神が為している。つまり、キリストの身体は一つであっても、多くの肢体があるということである。それぞれの肢体はみな必要であるので、他を排除しようとしてはいけない。実際には、目立たず無価値に見える肢体の方がより良い姿を持っているものだから、そのような肢体にこそ価値を付与するべきである。こうして、神は全ての肢体が分裂しないよう配慮されている。だから、誰かが苦しめば共に苦しみ、誰かが喜べば共に喜び合い、互いに一致しているべきである。

第十三章
霊の賜物を求めることは良いことだが、能力や賜物よりも重要なのは愛である。どんな優れた能力や賜物があろうとも、そこに愛がなければ無価値である。どんな知識も、預言も、異言も、将来より完全なものが到来した時に廃棄されるものであるが、信仰と希望と愛の三つだけは永遠に残る。このうち最も大切なのは愛である。

第十四章
コリント教会では集会中に互いがしゃしゃり出て混乱していた。パウロは霊の賜物を熱心に求めるとしても、異言よりも預言の賜物を求める方がよいと述べる。異言は非信徒のための徴としてあるのであり、預言によって解釈されなければ信仰を建てることに貢献しないからである。一世紀の集会では、讃美歌が歌われ、聖書が教えられ、啓示や異言がなされ、その解釈がなされていた。異言は二、三人が交代に行ない、他の者は黙っており、女もしゃしゃり出るのをやめ、集会では一切が行儀良く、秩序正しく執り行なわれなければならないとパウロは呼びかける。

第十五章
コリント教会の一部の人は、天の身体への復活は起きないと主張していた。これに対しパウロは、初めに伝えた福音について思い起こさせ、復活が起きないとすれば、キリストも復活しなかったことになると反論する。また此の世の命だけが生命だとしたら、楽しみごとを犠牲にして、日々死にそうな目に遭っているのは無駄であると論ずる。さらに肉の身体は神の国を受け継がない、つまり新しい契約に与れないことを示す。パウロは地上に様々な生物がいるように、肉的な身体と霊的な身体があると説明する。イエスは第二のアダムであり、それゆえイエスから生命を受ける者は天的な身体に復活されなければならない。パウロはこの手紙の時点では、自分が死ぬ前に終末が来ると信じており、死を経験せずに瞬時に霊的身体へと変化することを望んでいた。朽ちる人間が死んでから復活することではなく、死を経験せずに変化することこそ、死への勝利を意味する神の秘義であるというのがパウロの主張である。

第十六章
パウロはエルサレム教会の聖者たちへの寄付を求め、パウロ自身がコリントを再度訪問した際に金銭を受け取り、それをエルサレムへと運ぼうとした(寄付活動についてはコリ二8、9章へ)。そのために、ペンテコステまでエフェソスへ留まり、マケドニアを経由してコリントへ向かう旅行の計画をした。しかし、この計画は変更される(コリ二1章)。パウロはアポロにコリント教会へ行くよう呼びかけたが行く気がなかった。ステファナスとフォルトゥナトスとアカイコスはコリント教会の信徒でパウロと共にエフェソスまで同行した奉仕者。アキラとプリスカも同様。最後にパウロの自筆で、マラナタ(我らの主よ、来て下さい)というアラム語を書いている。

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