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哲学詩:考えるクラゲ

究極的なことは
何も分からない
という答え以上の答えが
今後出るとは思えない…

絶対主義にも相対主義にもなれず
頑固にも虚無にもなり切れず
クラゲのように浮動的な
不可知論といってもいいのだろうか

前提を置かないと
何事も定義付けることも
演算することもできないこの世界
でもそのいかなる前提も
真理である根拠はない
人は現実を知れないし
現実を見れない

だから夜空に星を定めて
それを基準にして
星と星の関係性を通して
世界を構造的に描いていく
こういうことしかできない

倫理の前提はどれも真理とはいえないが
漠然と
生きるのは正しい
幸福は正しい
自由と平等と平和は正しい
という諸前提を
人々は基準として受け入れている

なぜ正しいと言えるのだろうか
それは〜したいという
欲望があるから正しいのだという
しかもそれが多数派だからと

誰しもが
いや大多数の人が
生きたいし
幸福になりたいし
自由と平等と平和を望む
だからこれは倫理の基準になるのだと
そういう理屈だ

死にたい人
不幸になりたい人
自由を望まず
平等を望まず
平和を望まない人
そういう人々はマイノリティであって
それゆえ倫理の基準にはならない
そういう考えは
共同体の多数派によって
拒絶され
忌避される
それが倫理というもの

でも、もっと深く掘り下げれば
死にたい時もあろうし
死んだっていいし
やがては死ぬものだし
正義による処刑や戦争で殺したりするし
生きるのが必ず正しいかなんて
誰も分からない

人は欲望や感情を基にした倫理を基準に
物事を判断していくけれども
それは常に矛盾を抱えており
矛盾があるということは
社会の中にあっては
理不尽なこと
不可解なこと
が常に起きるということを意味する
人間の意識と宇宙の摂理の間には
矛盾が横たわり
それは一致しないということ

古の賢者たちは
人間の意識よりも
宇宙の摂理の方が大きいと捉えた
人間の認識は限定的で
狭くて
歪んでいる
それに人間は力が小さい
一方で宇宙の方が大きく
力が強く
人間を常に支配して襲ってくる
人間はそれにまったく抵抗できない
人は宇宙の摂理の流れを掴んで
受け流すことで操作するしかできない

人間が知る宇宙の摂理は
不完全なもので
妥当性でしかなく
経験によるフィルターに染まった
固定観念に過ぎなかったりする
それでも
生きていくには
判断していかねばならない
だから生きていくには
不完全な摂理の理解を使って
自然の摂理を操作し
幸福の方向に向かうように
その摂理を受け流す必要がある

だから人は
より妥当性の高い摂理を欲している
宗教的な道徳基準とか
科学的な判断基準とか
社会で生き抜く知恵とか
そういうものを求めている

さらに
その知識や知恵を
実際に使える能力を欲している
だから自制心や自律心などを
身体に叩き込むために
修行して訓練したりする

人はそこまでして
生きたいし
幸せになりたい
のだなぁと

幸せの定義や基準など
人それぞれだろうけれども
自分がモテることが幸せな人もいるし
みんな仲が良いことが幸せな人もいるし
心が平穏なことが幸せな人もいるし
心が燃えられることが幸せな人もいるし
人それぞれだけども

人それぞれ
幸せが違うから
世界はうまく廻っているのだろうか
もしくは
世界は対立してしまうのだろうか

みんなが一致できる幸せの基準なんて
あるのだろうか

人の欲望はどこまでも満たされず
満たされないからこそ
延々に喘ぎ求めて廻り続ける運動となる
それが生命なのかも知れない

何のために生命は生まれたんだろう

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