隣人を愛するとは

申命記6:5には「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神を愛すること」と記されている。マルコ、ルカではここに「思い」が追加されている。マタイでは「力」が省略されている。ここで、思考の重要性が浮き彫りとなっていることが分かる。隣人を愛するには思考(理性)が不可欠である。

「隣人を己の如く愛する」には理性が必要である。相手の立場から世界を観るには想像力が必要だが、相手は自己と同じ生物ではないから、相手の立場から世界を観て相手を理解するには理性が特に必要なのである。

心を感性、魂を生命、思いを理性、と置き換えるなら、「理性と感性を尽くし、生命をかけて、全力で、あなたの神を愛し、隣人を己の如く愛せ」という意味合いになる。律法全体はここに集約される。

「私の隣人は誰か」と問われると、イエスは善きサマリア人の例えを出した。当時ユダヤとサマリアは人種・宗教的に対立していた。しかし、イエスはユダヤ人を助けたサマリア人こそ隣人となった、あなた方は彼と同じように行えと述べた。「汝の敵を愛せ」とあるように、隣人とは仲間かどうかに関係なく、己が関わる全ての人を意味している。

隣人は「近くの人」を意味する。これは単なる仲間や同胞を意味していない。また直接的な距離が優先されるのでもない。「自分がその都度関わる全ての人」を指す。隣人は人類全体と言えるが、これを人類愛として思考する時、身近な人のことを忘れがちである。つまりこれは日々の具体的実践と関係する。

思弁では人類の平等や平和を考えて発言したりしていても、実際に今現在、その都度、目の前で関わっている人に対してそれを実践しているだろうか、という問題意識がここには含まれている。

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