生物進化の論理VS神ありきの倫理

進化論は弱肉強食ではない、それは誤解だと良く指摘されるが、少なくとも生き残りをかけたゲームはそこにある。

自然選択(自然淘汰)が起きる主要な要因の一つは資源の不足である。資源が全員に行き渡るのには不足する時に、その資源の奪い合いが起きることで生存競争が発生し、生き残る者と死ぬ者とが発生し、進化が促進されるのである。

例えば、住処や食べ物が全ての個体には足りない時、つまり繁殖力(生まれてくる数)が環境収容数を超える時。またメスが全てのオスに足りない時。この場合は雄雌間の生殖のためにかかるコストの比率が重要で、大抵メスの方がコストが高いため希少価値となる。

だから自然選択は全く弱肉強食でないとは言い切れない。

進化論は、生物は子孫を残すために生きており、子孫を残せた者が結果的に勝者であるという価値観を生みやすい。でも、そんな価値観は残酷だし、魅力的でもなく、人間の美学に反しているではないか。

進化論は生物が環境に適応して変化し続ける仕組みを説明してくれるものだが、人間の生のあり方について全てを説明できるわけではない。そこは科学の限界とも言える。そしてそれを補うのは宗教、哲学、芸術などの人文系の学問である。

イエスの教えは、生物進化論の摂理に反したことを教えているようにも見える。ゲーム理論の合理的に生き残る手法に反している面もある。死を惜しまず生命を捧げ、復讐せず、敵を愛し、何も返せない貧しい者に与え、無限に赦し、隠れた所で善をなし、富を求めず、できるなら独身を保てと。

それはまるで、神はイエスを通して、人間は生物進化の摂理で生きる存在ではないと言っているかのようである。人間は本能によって生きる他の生物とは異なり、自然法則のままに生きる存在ではなく、霊性を備えている神の子なのだと。

生物進化論は自然法則として認めるべきものだが、人間はそれ以上の美学をもった存在であり、本能的、機械論的な存在以上の何かなのである。ニーチェはキリスト教の道徳を反現実主義的なルサンチマンだと断定したが、本当にそうだろうか?

自然界は合理性によって司られており、自然界から合理性を学ぶことは有意義で、神の叡智に触れるかのような喜びがある。しかし、自然法則は神を認識して神と交流することはできない。それゆえ、自然法則による回答は、真の合理性を有してはいないのである。神の存在を信じる時、人間の合理性は自然法則を上回る合理的な回答を導くことになる。それが霊性である。

旧約聖書のモーセの律法は、自然法則的な正義だったのかも知れない。それは生物進化論やゲーム理論に適合する正しさである。それにさえ達せない私たちは自然以下、動物以下に堕落しているのかも知れない。しかし、イエスは旧約の律法以上のことを求めている。つまり、自然法則以上の霊性を求めるのである。イエスは、動物としてではなく、神の子としての真の人間的な正義を教えている。

自然的(地上的)な欲望、自然的な感情、自然的な合理性、によって行動するなら、人は人間としての尊厳を失ってしまうのである。人間は天の神と繋がる霊性を持つ存在としての尊厳を持っている。それをイエスは教えてくれる。

世俗的ヒューマニズム、神を信じなくても道徳は実践できるという主張があるが、神がいることを前提にしなければイエスの教えの実践は決して合理的ではないだろう。むしろ愚かな行為と言えるのではないか。だから、世俗的ヒューマニズムでは自然法則の実践としての道徳しか記述できない。

例えば自然法則のゲーム理論では、「しっぺ返し戦略」が最も合理的とされており、生物もこれに適合化している。しかし、イエスの教えはまるでこれに当てはまらない。なぜか。それはイエスの教えは”神ありきの論理”なので、自然法則の論理を超越しているからだ。

自然法則は基本それ自体で神を認識できないので、神なしの論理で動いているのだが、宇宙が長い期間を経て、生命という形で自らを結晶化させ、進化を経てその複雑性が増していったところで、ある時宇宙に知性が生まれた。それが人間であった。宇宙はその時はじめて知性を通して神と出会ったのである。それは被造物が創造者に出会った瞬間であった。

人間は知性を持ち、神を認識し始めた地球上の最初の生命体なので、自然とは異なり、”神ありきの論理”で思考することができる。それが人間特有の性質である霊性だ。だから人間たる者、自然法則の論理で生きてはいけない。神と出会った宇宙(被造物)として振る舞わなくては人間性ある振る舞いとは言えない。

自然法則は偶有性の論理を持っており、善悪の論理を持ってはいない。しかし、神は善悪の論理を持っている。人は神との関連においてのみしかそれを持っていない。したがって、自然淘汰は偶然による選別だが、神だけは優劣で人間を裁くことができるのである。

神の国は万人が入れるのではなく、そこには一種の淘汰があるが、それは自然淘汰でなく神の審判による。神は外面的能力でなく、内面の霊性によって人を裁き、人を選別する。しかし、人にはそれをする能力はない。

人が人を裁く時の裁きは当てにならない。優劣で裁けるのは神しかいないからである。人は自然法則による外面的因果でしか判断できないのである。また霊のある人は”神ありきの論理”で倫理的思考はできるが、個人の内面の霊性の本質を測り知ることはできないのである。

例えば、自然的な人は「しっぺ返し戦略」でゲームを進める。それは自然的合理性だが、そこに倫理はない。霊のある人は”神ありきの論理”で復讐を控えて見返りのない善を施すだろう。それは非自然的合理性だが、そこに倫理はある。しかし、各人がどういう動機で行うのか、人には測り知る(裁く)ことはできないのである。

だから、人の霊性を正確に測ることができるのは神のみである。それゆえ神のみが人を霊性の有無という優劣で裁くことができる。そしてそれが審判の基準となる。審判は自然法則によってなされる外面的な自然淘汰などではなく、列記とした優劣による選別なのである。それに不信感を抱くべきではない。ただ神のみには、それを行なう能力と権利があるということである。

霊のない人はただ自然法則による合理性に則って行動する。それはいわば、神を認識していない動物たちと同じ思考である。しかし、霊のある人はそうではない。被造物である宇宙が神を認識する知性を獲得したことで、宇宙は神と初めて出会い、被造物と創造者の関係を認識したことを自覚するので、イエスの教えた”神ありきの論理”で思考し、自然法則を超克する。

人間性とは本来、”神ありきの論理”で行動することである。人間は本来、生まれつき人間性、つまり霊性を備えている。人間の知性は神を認識できる非自我的なメタ思考を持つからである。それが他の動物と人間を隔てる能力なのである。しかし、それを意識的に否定し、あるいは偽善的に用いて、自然法則的な合理性のみで行動して、自らを動物化させてきた黒歴史がある。しかし、人々が今日でも道徳的に振る舞い、人間性を発揮する時、それは”神ありきの論理”をしていた頃のなごりを、無自覚に発揮しているのである。

イエスの教えは自然法則を越えたところの”神ありきの論理”を提示するということが見えてきた。生物進化や自然法則の合理性を越えるべきことを教えられた主イエスの言葉の中に、自分の倫理の志しを置きたい。

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