信仰、理性、恵み、魂について

【信仰とは何か】

共有し得る知識を土台に話し合い、考え続けることや対話を拒否して、そうした知識を大切にする人を高慢と言うのとでは、どちらが高慢だろうか。

私は対立する人の意見にも耳を傾けるようにできる限り努力したいと思うし、様々な事実を参照した上で総合的に判断する姿勢が大切だと思うし、自分が間違えていることが分かったなら信条をアップデートする姿勢はいつでもある。

万人が一度救済されるのなら、何を信仰していてもよい、自分(もしくは相手)が幸福ならなんでもあり(みんな違ってみんな良い)ということになるか。それは相対主義であり、利己的に過ぎる信仰態度ではないか。自分の心が救われるのなら何でもありということになる。しかし信仰とはそういうものではなく、今現在ここで苦しみ害を被る人たちのために全力で考え続けることだと思う。

「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」マタイ10:39
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」マタイ16:25

思考停止はやがて人を支配することになる。自分よがりということだから、自分は幸せでもその子供や周りは害を受けることになる。子供と直に向き合わない。子供の意見にきちんと耳を傾けず、論理も感情も通用しないので対話にならない。

二項対立するものの中間に常に立つ必要がある。科学と神秘の間に。どちらに偏ってもいけない。それは相対主義ではなく、両義主義である。それは難しく、苦しみを伴うことだが、それがキリストの精神、自らの十字架を背負って歩むことだと思う。

自然界(科学)と人間の心(哲学)と啓示の書物(宗教)が三者一体となってせめぎ合うところの釣り合う点(落とし所)を探すのでなければ、神学としては未完成なのではないか。そしてそれは決して簡単なことではないから、それを探し求めつづけることが信仰なのではないか。

現実や事実や共有知にきちんと向き合った上で、その範囲内で自由に信仰するのは構わない。でもほとんど不正な形で情報を無視あるいは操作して信仰することは許されてはならないのではないか。

神は秩序の神。だから人間は神(超越者)を認識し、世界を把握する事ができる。理性と共に秩序もなければ、人間は何も判断し得ない。だから理性を捨てるのは愚かである。それは神への冒涜でもある。理性を捨てるのでも理性に反するのでもなく、理性を保ちつつ、人間の理性の限界値を越えるところにあるものを信じるのが信仰である。そうでなければ何でもありになってしまう。

人間の理性が脆いのは誰もが指摘してきたことである。特に社会的生活に関しては人間の理性は弱く、不合理な判断をする。同時に人間の理性が為してきた学術的な偉業も驚くべきことばかりである。人間理性は限定的で有限、欲望の前には無力だが、それでも多くのことを把握し操る力はあるのである。

「宗教無き科学は欠陥であり、科学無き宗教は盲目である」byアインシュタイン

信仰は教義(ドグマ)を信じることではない。教義はどんなに妥当性を高めたとしても解釈であり変わり得る。信仰は超越的存在に対してするものである。宗教・宗派など本当はない。真理は一つなのだから信仰も一つしかない。我々は真理は知らない。真理の存在は信じるものであり、把握しきることではない。ただ心で信じ、語り得る範囲で知を深め、求め続ける。

この世界には真実があると信じることが信仰であって、真実などないと信じないことが不信仰である。

聖書を科学的(理性的)に分析することは当然のことである。しかし、それで分かる事柄は限定的であり、数多くの理論はあれど、確定的なものは少なく、多くのことは謎に包まれている。これを受け入れてからが本来解釈のスタートであり、こうした諸事実を無視した解釈は許されないし、妥当性があるものとは言えない。

本当に努力不足や怠惰でなく無知なだけの騙されている人はまだ良い(それでも過ちの罪は消えない)。悪いのは十分に理解する能力がありながら人々を誤導することである。指摘されても再考したり改善したりせず、都合の良い一部の情報しか採用・提供せず、自分たちだけが正しい理解を持っていると無根拠に言うこと。そして微妙な言い回しで批判を言い逃れられるようにすること。

個人の能力的な問題は致し方ない。過去の人々も現代から見たら理解に乏しい点も多かったのだから。だからといって、全力は尽くすべきだ。なぜなら現実では、無知なら罪が許されるわけではないからだ。神は赦してくれるかも知れないが、無知により悲惨な事態を招くことは多々ある。だからできる限り、広く正確に知る努力はしないと、自他共に悲惨な結末を招きかねない。だから何を信じるかは非常に重要なのだ。

解釈の一つであるのに、自分たちだけ正しい教理を信じている、他は間違えていると思い込むことは、理性的だろうか。逆に信仰なら何でも良いという考えは信仰に対する侮辱であり、結局は無信仰であり、相対主義である。

真理は沢山あるという多元論はメタ思考ではない。多元論の背後には一元論がある。「我々は多元的にしか把握できない」「真理などない」という時でさえ、その言説の背後には一元論がある。

私は理性は失いたくないし、理性に反するものは信じたくない。それは神が人間に与えてくれた最大の贈物である。理性がなければ人は神を認識することができないのだから。人間の理性には限界があるが、だからといって理性を軽視するのは危険である。「思いを尽くし」神を礼拝する必要があるとイエスは言っている。ただ超越を信じ、語り得ぬものは黙し、語り得る現実を見ることである。

私はそれが理にかなっているか、かなっていないのか、と言う点で判断するのであり、感情論で曇らされた考えは意識的に排している。私の判断はメタ的な視点に立つことを志向している。それは私に感情がないからでも私生活が無味乾燥なわけでもない。感情に警戒するのは哲学の上で必要だからである。しかし最終的にその理論が人間の心や啓示と調和するかどうかを精査する。

理性があるなら神は信じないはずでは?という意見に対しては、思考や判断そのものに超越性への信仰が不可欠であり、そうした意味での非自我なる超越性の秩序と力を私は信頼している、と答える。教義(ドグマ)は人の解釈に過ぎない。信仰とは、超越性と合理性の間の不合理性に常に対峙しつづけるということではないか。

私は聖書に依拠しているのではなく、真理に依拠し、聖書から啓示される真理の光を受け取ろうとしている。聖書がそのまま真理なのではなく、真理が聖書に啓示を与えているのである。だから聖書に依拠してただ引用してお仕舞いなのでなく、聖書から真理の光を汲み取ろうと対峙するということ。私にとって聖書は大自然(被造物)の一部であり、自然の研究と同様の仕方で研究する。

ならば真理は学のある者しか分からないのか?それは不公平ではないか?という意見に対しては、否と答える。厳密に論理を構築する行為と、純真な心は対応し、共鳴するものだろう。それは表裏一体であり、補うものでもあり、別々のものではない。愛は心の濁りを晴らすものなのだから。

本当に純真な者は学ばずとも心で理解しているものである。しかし我々の心は澱んで、イドラに捕らえられている。無自覚なほどに。だから光によって照らされて刻銘に気づかなくてはならない。気づくには理性が必要である。おぼろげな心は不安定で、弱き信仰(確信)は沈み込ませるものだ。それゆえ知恵を祈願と共に求めつづけなくてはならない。

真理は我々が思っていることの反映ではない。気づきとはいつも驚きである。驚きの連続である。自分が変えられる時にしか真理は近づかないのである。我々は真理を知っているから救われるのではなく、真理を求めるからこそ救われ、神の像に変えられていくのである。それが信仰の道である。

【理性とは何か】

数々の分派に分裂してきたことがキリスト教会の最大の罪であり、それは聖書に反しており、かつ殺害(社会的/身体的な)を正当化してきた。

三位一体か非三位一体の神を信じなければ救われないとするドグマがいかに理性的たり得るだろうか。それを聖書から論証できるだろうか。

なぜそんなことで分裂しているのか。不毛だと思われる。証明できないことを証明し、規定できないものを規定しようとして喧嘩し、分離している。そういうのを神は悲しんでいると思われる。聖書は分派を作るなかれと度々書いている。神学体系は解釈であれば、人の解釈を信じることが神への信仰であろうか。

解釈はみなで探究していくものであって、ある解釈が信仰の唯一性になってしまうから、神そのものではなく、自分教(偶像崇拝)となり、分裂を招く。形而上学的なものは証明できないことなのだから、みなで考え続ければ良いだけである。色んな意見があるが、何が正しいかを決めるのは神のはずである。

自分たちだけが妥当な解釈と実践を持っているという自負は傲慢なのではないか。傲慢なだけならまだ良いが、そういう信仰態度が無用な殺害と差別を招く。

実際にすぐに戦争になるとは限らない。しかし、その被害は最初に家庭内で起きるだろう。身体の殺害ではなく精神の殺害、抑圧として現れる。特に子供が被害に遭う。それが悪しき実の兆候ではないか。

もしそうした兆候が見られるならば、それを容認している場合でなく、躓かせているその右手を切り捨てるべきではないか。つまり、どんなに痛い目に遭おうとも、せめて自分はそこから離れるべきだろう。そうでなければ、自分も同じ罪に加担してしまうことになる。

伝統は一度歴史的に確立した理解である。しかし冷静になれば、伝統に永遠の根拠などない。伝統は常に再吟味を要する。当時ある伝統が確立したとしても、時を経た後に再考すべきである。なぜなら、伝統の確立は純粋論理でなく、政治的な面や時代背景的なものが大きいからである。


【恵みとは何か】

義人も悪人も罪の下ではみな等しい。この地上では完全な自由意志など存在しないからである。義人も悪人も復活すると主は言われる。また一人の人(キリスト)を通してすべての人が救わると。死んだ者は罪から放免されている。だから万人は一度は主の贖いにより命を救われるのではないか。主を認めるのが早いか遅いかの違いである。しかし、命を贖われ天地が清められ、悪の影響がなくなった後も、主を自由意志によって頑なに認めない者たちのみが最後には消滅する、…のではないのか。

かつて私がどん底にある時に助けてくれたのはクリスチャンではなく、非クリスチャンの人だった。イエスの譬えにある、善きサマリア人はクリスチャンでもユダヤ人でも同じ宗派の人でもない。

私たちが信仰を持てたとしても、それは私たちが何か他者より優れていたからでも、義にかなっていたからでもない。それは神の恵みによる。つまり、環境的に幸運だっただけである。今信仰を持てない人々も、物事が整えられていった後、いずれは多くの人が持つようになるだろうと思う。ならば、なぜ私たちは他者と比べて自分は優れた義人で、不信仰者は悪人などと言えるだろうか。

私たちが神を信じられたのは、私の心が優れていたから神にあらかじめ救いに定められていたのであり、信じられない人々は滅びに定められている、という神学の本質は優生思想である。また自業自得論、これもまた優生思想である。

おおよそ幸運な者には責任がある。不運な者を慰めるべきという。また幸運な者は、水に溺れ、炎の中にいる不運な人の手をつかんで救い出すという。時に優しく、時に真剣さをもって…

恵みを決定論としてではなく、偶然性として捉える必要があると思われる。神の恵みの光は万物に常に降り注ぎ、み言葉の種は全地に撒かれるが、それを受け取れる人は基本的にランダムなのであろう。偶然的に環境や状況が揃わなければそれを受け取ることはできない。降り注ぐ光と種がたまたま固い畑や柔らかな畑に落ち、そこに光と雨が注ぐ。だからこそそれを受け取れた人はその幸運を他の人へ分配する義務がある。

もちろん、預言者などの一部の人々は神があらかじめすべての環境を整えた人々であるのかもしれない。しかし神が預言者を立てる時、それはただ預言者のみが救われるためではなく、預言者によって他の多くの不遇の人々が救われるために立てられるのである。だから神が恵みや選別を優生主義的に用いるということはない。


【魂について】

『世界哲学史I』のユダヤ教の項目における「魂」(ネフェシュ)の解説にはこうある。

「ネフェシュは…生きている人間そのもの、人間の命、その全体性を表している」。

「…ギリシアにおいては、魂(プシュケー)は体のなかにあるけれども、やがてはそこから出て行き、肉体から離れ自立した存在となろうとすると考えた人々がいた。しかし、旧約聖書においてはネフェシュの不死性および死後の存続の観念をみることはできない」。

旧約聖書にはネフェシュの死後の存続と不死性の観念は皆無であるが、復活の観念は皆無ではない。例えばエリヤやエリシャが人を復活させた場面など。いずれも肉体の復活ではあるが。

これに従うと、魂の復活とは、”生きている人間そのものの全体性の回復”ということになる。

第一コリント15章を見るならば、人間の全体性には、身体だけでなく種が存在するとある。肉体は死と共に消滅するが、種となって存続するものがあり、その種に霊の身体が与えられるとある。ここにユダヤ教のネフェシュの観念からプシュケーの観念の変質・拡張が伺える。

マタイ10:28によれば、イエスは体を殺せても魂を殺せない者を恐れるなと言った。ここでも魂は体だけではその人の全体性ではないという、ネフェシュの観念の拡張が伺える。よって新約聖書ではネフェシュの観念は拡張されていると言える。単なる身体を超越した種なるものがその人の全体性に含まれるのである。

しかしそれは自律的に浮遊しながら生命活動を行う霊魂のようなものではない。種なるものに身体が与えられなければ、その魂は全体性とはならないのであり、生命を持つことはない。

ユダヤ・キリスト教における魂の観念は、この辺までは論理的・統合的に分析できるものではあるが、それ以上のことは真性の形而上学である。

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