日本のフェミニズムと共同体主義(ファルス論より)

ジャック・ラカンのファルス論は、ペニスをファルスのメタファーとするが、似たような構造は遺伝子構造の中にも見られる。すなわち、女性のXX染色体、男性のXY染色体。

これをジャック・ラカン的に言い直すと、Yがファルスに相当し、男児は社会(父)にY(ファルス)を去勢されるゆえにY(ファルス)を羨望する。女児はY(ファルス)を生まれつき持たないゆえにY(ファルス)を羨望する。男女共にファルスを欲している。そこで、女性は自ら全体をファルスに仮装(化粧)することで男性の欲望の対象になろうとする。男性はファルス化した女性を欲望の対象とする。こうして、男性からY染色体(精子)が送られ、女性は息子(XY)を欲望の対象とする、となるかも知れない。

僕の体感では、あくまで西洋の思想である、民主主義、自由主義、個人主義、人権思想、男女平等論などは日本人の肌に合わない。少なくともなんかズレていると感じる。今でも多くの日本人は、建前では男女平等論を唱えるが、いわゆる本音ではそれでは物足りず、共同体主義のような美学を男女共に自他に求めていると感じる。

さて、生物学的な古典的ジェンダー論(旧来の男女論)では、女性は子供を産み育てる機械だから社会に大切にされる。男性は労働・戦争の機械であり、女性・子供を守るために強靭な肉体を持つが大切にされない。ゆえに男性は女性・子供を守るべき存在であり、女性は子供を守るべき存在である。こうして社会は子供中心の社会であるべき、となる。この場合、男性にとっての父のメタファーは共同体であり、たとえ英雄死したとしても社会的な名声を得ることが男性の誉れとなる。女性も男性の社会的地位を重視する。社会→男性→女性→子供という入れ子状の階層構造。この道徳的価値観により一定の社会秩序が形成されていた。

しかし、これだと子供を産めない女性は大切にされないし、結婚できない男女は大切にされないので、人間の尊厳や価値は生物学的な有用性で決められるべきではないとし、今日のジェンダー論では性別を子供を産む機械、戦争・労働のための強靭な機械かのように見なすことはタブー視されるようになった。しかし、これにより少子化が進んでしまうという弊害も起きているし、実際の社会では未だに生物学的な優生思想は活きているので、旧来のジェンダー論を再評価する人々もいる。

旧来のジェンダー論は男尊女卑の構図で語られることが多いのだが、確かにそのような面もあったはずだが、視点を変えると、それは「共同体の財産である子供を中心として、男性は家庭における責任者で、命を賭けてでも女性・子供を守らなければならない。女性は命を賭けてでも子供を守らなければならない。そういう家庭を持つことが大人である」という武士道的な思想でもあったのではないか。そして、この価値観は今でもヤンキー文化、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの強い世界などではそのまま継承されているのではないか。

男性はスーパーエゴ(超自我)である父の法にファルスを去勢されているが、男性にとってのファルスは父なる共同体(国家)と、ファルスの化身となった女性(妻)からの賞賛と栄誉を得ることで擬似的に回復される。

ここに男性のファルスへの欲望は分裂・葛藤する。父(男性中心社会)からの栄誉を優先するか、母(神秘なる女性)からの栄誉を優先するか。共同体からの愛を優先すれば、仕事優先で家庭を顧みない状態もあり得る。女性からは「仕事と私どっちが大事なのか?」と迫られる。家庭愛を優先すれば、父なる共同体からの賞賛は得損ないかねず、経済的にも苦しくなる。

日本男児の多くは父なる共同体からの賞賛の方をより強く欲望してきた。場合によっては共同体のために命を捧げ、家庭を捨てるのが父への愛だった。家庭では見せられない母的甘えは花街のママや娼婦や愛人に向けられた。それは男尊女卑とは違うのだが、女性としては「仕事も家庭もどっちも頑張って欲しい、娼婦でなく私に甘えて欲しい、私も家庭の中にただ閉じ込められるのは嫌だ」というのが本音だったし、女性解放運動で女性が本当に言いたかった主張はこれなのだが、男女平等理論にすり替わってしまった。

女性が社会参画を望むのは、男性が父なる共同体に奉仕しようとする感覚とはまた異なる。ファルスを去勢された男性は投影的父親(共同体)からの禁欲的な賞賛を求めているのだが、ファルスを持たない女性は投影的父親(共同体)からむしろ欲望されることを求めているからだ。男性にとっても女性にとっても、共同体との関係は、父と子の関係性に似ている。

だから男性は共同体の権威に対しては禁欲的、自己犠牲的になる。女性は共同体の権威に対しても魅力的なアイコン(アイドル)であろうとする。

女性の欲望の分裂は複雑であり、父なる共同体への愛と、夫への愛と、子への愛にある。女性のスーパーエゴ(超自我)はより魅力的なアイコンでありつづけることだが、女性は自らをファルス化して男性を射止め、結婚後は父親の投影の対象が共同体から夫に変わる。夫を通して共同体と関わろうとするので、夫に対して社会的地位を求め、これを支援しようとする。夫からファルスを贈られ子供ができると、今度は子供が女性にとっての欲望の対象となる。この時、女性は本来、男性(社会や夫)のために自らをファルス化する必要性はなくなり、子供を守る体制に入る。しかし、女性はファルスを持たないので、男性中心社会において社会的地位を維持しなければならず、そのために社会や夫に対して自らをファルス化し続けることで、社会や夫に子供を守ってもらいたい、自分は父と子の間の媒体(メディアなる母)であることで子供への欲望を間接的に果たすという入り組んだ自我像によって、弱き女としての自我像と、強き母としての自我像が、抑圧・分裂・葛藤する。

女性は賢いので、女性の抑圧を解放するため、女性解放運動を起こし、その成果により、社会的経済力を身につけた女性は、夫を通してではなく、父なる共同体へ直接働きかけることができるようになった。すなわち、女性も政治に参与するようになった。これにより、男性や夫への不満、つまり男性には仕事も家庭も両方頑張って欲しい、浮気しないで私(妻)にだけ甘えて欲しい、性犯罪や女性蔑視するのをやめて欲しい、という訴えを父なる共同体の倫理的価値観にすることにある程度成功しつつある。

男性は女性への愛より父なる共同体への愛を優先してきたから、女性からの直接的な声は届きづらく、男性を変えるには父なる共同体(スーパーエゴ)からの命令にしなければ効果がなかったのである。こうして、家庭を守らない男性は男性としてダメという命令を父なる共同体、つまり男性中心社会(ホモソーシャル)から命令されることによって、男性は仕事優先だけしても父から承認されないことを自覚するようになった。こうして、これが現代の新たな「男らしさ」となった。

さて、社会に求められる男性らしさが変わるにつれ、以前は横暴に振る舞えていた弱者男性、または恋愛市場でモテない男女は、父なる共同体からも、母なる女性からの愛も受けらなくなったため、どのように反撃するようになったのか。

その戦略は、女性解放運動の解釈を歪めることであった。女性の無意識の欲望を考慮に入れず女性解放運動を解釈すると、それは単なる男女平等論にすり替えることができる。男女平等論にすり替え、これを厳密化すると、性のフラット化というものに行きつき、女性解放運動を意味をなさないものにすることができるので、女性解放運動の理論自体を解体することができると考えた。したがって、共同体のスーパーエゴの重圧に耐えられない男女は男女平等論によって、性のフラット化、結婚制度の廃止、超個人主義をスーパーエゴ化しようと企てる。こうして、女性解放運動と男女平等論は、同じフェミニズムの軸で混合的に語られるが、もはや対立的な部分さえあり、混合すると大きな自己矛盾が生じるので、論争が絶えないのだろう。

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