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霊、生命の木についての考察


交通などのインフラや、インターネットや、生物進化など、可塑性により発達してきたものは効率の悪い複雑さが内部に残り続ける。それは既存のシステムの上に付け足す(もしくは削る)ような形で新たなシステムが組み上げられていくからである。それを一から最適化するにはリセットが必要で、リセットは絶滅と再設計を意味する。

人間が知能を発達させてきたのは、遺伝的な可塑性によって形成されたシステム上の効率の悪さを再設計する必要が生き残るために必要だったからかも知れない。少なくとも、知能は、これまでの可塑的なシステムを非可塑的に修正し、再設計することを可能にする…。

例えば新しい道路が作られても、既存の古く狭い道や建物は残りつづける。これにより効率の悪い迂回を強いられたり、余計な曲がり角があったりして地図が複雑になったりする。インターネットや生物進化もそれと似たような道筋を辿っている。これを最適化するには工事を繰り返して少しずつ修正していくか、大地震などで一旦地形がリセットされなければ難しい。

もちろん人体の構造にもこうした非効率な複雑性はあちこちに散見されるため、人体は生物進化のプロセスを経て形成されたものだという強い傍証となる。

人体は知能を発達させたことの副産物として、他生物に対して自己投影することが可能となり、これにより肉を喰らうことに対する不快感や哀しみを感じるようになってしまった。しかし、古いOSである欲望からは肉を欲する衝動が生ずる。これにより、欲望と理性の対立(矛盾)が生まれてしまっている。

人間以前の生物時代からの古いOSは欲望を叶えることに幸福を感じ、比較的新しいOSである理性は欲望を抑えることに幸福を感じる。



聖書の中で「生命の木」が具体的に何を意味するかは不明だが、それは生物進化により生じた欲望と、人間が獲得した理性の対立を埋め合わせるために、神が用意していたインターフェイスだったかも知れないと考えてみる。もし生命の木を受け取れば、人類は欲望と理性の対立を遺伝子レベルで修正できたはずだったが、アダムはこれを拒んだため、生の苦しみを子孫に継承したのかも知れない。

聖書を読むと、アダムは最初は永遠の生命を所有はしていなかったことが分かる。アダムは一定期間「善悪の知識の木」から食べないようにという神の試験をパスした後に、生命の木から食べることを許可され、永遠の生命を受ける予定になっていたと思われる。アダムは永遠の生命を”獲得”できなかったのであって、永遠の生命から"堕落"したわけではないようだ。

アダムとエバは、善悪の知識の木の実を食べたことで、裸であることを知り恥ずかしくなって身を隠した。しかし、これを性的な罪の比喩と見なす必要性はない。これは神を裏切った自覚から神への恐怖をはじめて感じたという意味と考えることもできる。人間は神への罪意識をはじめて感じ、神の審判を畏れる存在となった。

人間は生命の木(理性と欲望の対立を埋め合わせるインターフェイス)を神から与えられる存在となるはずだったが、蛇はむしろ人間自身の"知恵"でこれを実現すべきであり、神に頼り、神に従属する立場になる必要はないと唆したのかも知れない。

よって人間は神を畏れつつ、神への罪意識から逆ギレして、生の苦へと人間を放置した神を憎み、自らの知恵によって永遠性を取得しようとする欲望、あるいは死(絶滅)への欲望に取り憑かれている。

科学主義は人間の知恵と技術で世界のあらゆる問題を解決し、人間自身を改良することを内に秘めた目標としている。仏教などインド系の宗教は人間自身の知恵の悟りによって理性と欲望の対立を一致させることが可能であるということを内に秘めた目標としている。これらは神の否定、自己神化の欲望を内在化しているとも言える。

では、知性は生物進化の可塑性の非効率性を自ら修正するために発達してきたという初めの見解はどうなるのだろうか。知性そのものが罪なのだろうか。そうではあるまい。知性がなければ人間は神と出会うことはできなかったのだから。知性が罪なのではなく、神との繋がりを無視することが罪ということだろう。人間の知性は物理的構成しか修正できない。特に意味論に関しては無知である。科学的理性は人間の存在理由、倫理的価値などを規定することはできない。科学では「何故」は判断できず、「如何に」しか判断できない。しかし、人間は「何故」を必要としている。それが曖昧なままだと人間の知性は暴走してしまう。だからこそ、人間には自らの知性だけでは足りず、神との繋がりが不可欠なのであろう。



さて、使徒パウロが、第一コリント15章で、人間が死ぬときに撒く「種」と述べた種とは具体的には何を指すのだろうか。普通に読むと「魂」かなと思うが、命の書に書かれた「名」であるとも考えられる。いずれにせよ個人を特定する核となる情報、その情報を基に身体を再構成するもの、遺伝子以上の何かである。それがないなら事実上、復活はできないだろう。

種、胤、子孫というと、やはり我々は死ぬ時に物理的には消滅し、"私の人格を継承した子孫としての私"が、クローンとして再び形成されるのではないか、という疑いは拭い去れないだろう。生きている今現在も肉体の分子構成は常に入れ替わっているわけだから、同じようなものとも言えなくない。しかし、これは離散的な宇宙論の弊害かなとも思ったりする。

けれども、「物質の身体」→「霊の身体」になるというからには、それは単なる複製(クローン)ではないし、身体の変換がなされている。種はその変換作用の際に影響を受けることのない要素である。プログラミングで言えば、定数、またはクラスで言うところのコンストラクターなわけだ。物質的身体から霊的身体に変換される時、継承される情報はクローンでなく、オーバーライドされていると言える。


意識とか社会現象のように、集合的な物質的構造体から創発される現象のことを、古代人は「霊」と述べたのかも知れない。だとすれば、その霊は、質的領域として物質と同等に実在している。ただ神や天使や悪霊と言った概念はそれとは少し異なるかも知れない。

意識や人格といったものは、肉体という物質的構造体から創発された現象である、という説が有力とされている。では「霊の身体」とは何を意味するのか。もしかしたら、肉体(肉の身体)から意識や人格が生まれる(創発する)のとは逆に、意識や人格から身体が生まれる存在が霊者(霊の身体)かも知れない。

肉(物質)の身体→意識や人格(霊)→霊の身体(霊の物質化)

すなわち、宇宙は、

地的物質ー霊ー天的物質

と区別することができ、

霊は地的物質と天的物質のインターフェイスである、という見方である。

地的物質というのは、人間が知覚可能な範囲の物理現象のことであり、天的物質というのは人間には知覚不可能な範囲の物質現象のことであり、どちらも同じ宇宙の中に重なり合って存在しているのだが、霊が唯一両者を繋ぐインターフェイスとして機能している。

心の哲学の中には、意識は物質の現象をただ感じているだけで、意識の方から物質に影響を与えることはできない、という機械論的見方(随伴現象説)が存在する。しかし、もし意識の方から物質に影響を与えることがあるならば、それは霊的な活動力と言うことができよう。

そして、それは霊の再物質化にも相当する可能性がある。

物質→意識→物質→意識→物質・・・

このように循環的に宇宙は展開している可能性である。

この場合、地的物質で構成された肉の身体(人間)から創発された霊(肉的意識)は、天的物質へと再物質化して霊の身体となり、霊の身体(霊者)から創発された霊(天的意識)は地的物質へと再物質化して肉の身体を構成する。このように霊をインターフェイスとして天地を循環する形で宇宙は成立しているという見方が取れる。

ここまで来ると、肉体から創発した意識のことを聖書は肉の「欲望」と言っていて、霊体から創発した意識を「理性」とか、「聖霊」もしくは「悪霊」と言っている可能性がある。

要するに、自然法則の影響を受けて自動的に生じる意識を「欲望」と言い、より自由な領域である天的領域から自然法則の側に影響を与える意識を「霊」と呼んでいる、とも言える。これは意識が物質にも影響を与えているという見方であり、自由意志論を肯定する考え方ともなる。

恐らく天的領域と地的領域は、見えないだけで重なり合って存在しているので、我々が普段それらの領域を行き来していることを意識することはない。ただそのインターフェイスである霊、すなわち意識のクオリアや社会現象として、それを感じ取るしかないのかも知れない。

初め、「生命の木」は欲望と理性の対立(葛藤、矛盾)を埋め合わせるためのインターフェイスだったのではないか?と考えた。だとすれば、生命の木は何らかの霊(もちろんそれは聖霊だろう)であるかも知れない。そして聖霊を介するということ、それは神との永遠の繋がりを意味する。

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