『コリント人への第二の手紙』の要約

概要
パウロが第三回宣教旅行中、コリント人への第一の手紙の返信として、マケドニアからコリント教会へ向けて書いた手紙。55/56年。

第一章
使徒パウロとテモテから、コリント教会とアカヤ全土のキリスト者への手紙。パウロは以前コリント教会へ第一の手紙を送った。その後、恐らく急きょ二度目の訪問をしたが、すぐにエフェソスに戻ってきた。その手紙と訪問によって、コリント教会は淫行者の追放など悔い改めた点もあったが、エルサレム教会への寄付金活動に対する不服や、パウロの使徒としての権威に対する疑問を述べる者たちもいた。それについての弁明・説得がこの第二の手紙の主題である。
パウロは、キリスト者がキリスト故に苦難に遭っているのは、同じような苦難に遭っている人々を慰めることができるようになるためだと言う。そして、それができるのは、単に苦難に遭うからではなく、苦難に遭う時にいつもキリストが慰めて下さるからだと言う。だから、キリスト者は苦難と慰めを共有すべきだと説く。
というのは、パウロがコリ一16章で計画していたコリントへの二度目の訪問が大幅に変更になった故に、一部の者はパウロの手紙の内容は信頼できないと言っていたからである。しかし、それはパウロが滞在していたエフェソスで暴動(使徒19章23-41節)が起きた故に、死ぬほど大変だったので、すぐに行くことができなかったのだとパウロは弁明する。(具体的には、パウロは初め、ペンテコステまでエフェソスに留まった後に、マケドニアを経由してコリントに行き、エルサレム教会への寄付金を受け取ってからエルサレムに届けに行く予定だった(コリ一16章)しかし、恐らくパウロは一度目の手紙を送った後急きょコリントへ向かったが、この二度目の訪問はすぐに切り上げられ、再びエフェソスに戻ってしまった。その後すぐエフェソスで暴動に遭って足止めをくらい、暴動が収まった後にコリントへ向かい、トロアスからマケドニアを経由し、そこでこの第二の手紙を書き上げた。)だから、手紙の内容に嘘はないし、そちらに行くために努力したのだから、あなた方はむしろエフェソスでの苦難について慰めるべきだとパウロは訴えたのである。
さらに、コリントへすぐに行かなかった真の理由は、あなた方のことを信頼していたので、あなた方の信仰を束縛しないために遠慮していたのだと告白する。

第二章
さらにコリントへすぐに行かなかったもう一つの理由は、再び辛い気持ちを味わわないため、つまり悪行者に悔い改めさせる時間を十分与えたかったからだと言う。第一の手紙でパウロは、淫行者を教会から追放するよう厳しく指示していた。しかし、処罰はもう十分に与えられたので、今度はその人を再び教会へ迎え入れるよう指示する。もしそうしないなら、過剰な処罰の故にその人がサタンへ奪い取られてしまう危険があるからである。
パウロはエフェソスから出発してトロアスまで来た時に、寄付金集めのためにコリント教会へ派遣していたテトスと合流できなかった。それでがっかりしつつマケドニアへと向かった。(この話は7章5節につづき、一端話題は変わる)。
コリント教会の一部の信徒は、パウロのエルサレム教会への寄付金集めは貪欲から来る行為ではないか、本当にこの人は使徒たる資格があるのだろうか、といった不服を述べていた。パウロは今度はそれについて、自分は使徒たる資格があることを弁明し始める。まず、使徒たちの歩みをキリストの凱旋行列(勝利の行進)に例える。凱旋行列ではその通り道に香が焚かれた。それと同じように、使徒たちは救いと滅びの香りを宣べ伝えていると言う。だから、神の言葉で商売しているなどということはないと断言する。

第三章
しかし、宣教によって商売しているわけではないからといって、それが使徒たる資格があることと直結するわけではない。むしろ、使徒たる資格は神の霊による任命にあるということをパウロは3~6章にかけて論じはじめる。まず、使徒は自己推薦などすべきではなく、神の霊による任命を明らかにしなければならない。そして、コリント教会の成員がパウロの宣教によって神の霊を受けていること、それ自体がその証拠であると言う。
パウロは、自分は新しい契約の奉仕者として霊によって任命されたのであり、ユダヤ主義者とは異なることを論じる。すなわち、旧い契約(律法契約)は肉体を断罪し殺すものであったが、新しい契約は人を霊よって義と宣告するものである故に勝っている。また律法契約の仲介者モーセの顔は眩しかったので、イスラエル人はその顔を直視できず、モーセはベールを被った。これは律法契約では、誰も神の栄光を直に反映することができなかったことを指していると言う。しかし、キリストを知ることでベールは取り除かれ、神の霊を十分に受けることができ、神の栄光を直に反映できるようになると言う。

第四章
この故に、パウロは宣教をさぼったりせず、イエス・キリストの栄光を反映できるよう良心的に歩んでいる。もしもパウロを通して神の霊を感じない人がいるとすれば、それは此の世の神サタンによって思いが盲目にされて、ベールを被されているからに過ぎないと言う。何故なら、神はパウロがキリストの栄光を反映できるよう、ダマスコスの旅の途中で光を投じてくれたからである。
とはいえ、パウロは自分が外面的に弱々しく見え、様々な苦難に遭っているのは何故だろうかと自問する。それは、キリストが肉において死んだ後、霊において復活したように、パウロも肉的に死に、霊的に生きるためであると言う。またパウロは、神が主イエスの身体を甦らせたように、パウロのことも霊的な身体に甦らせて下さると信じている。だから肉体は日々老いていっても、霊的には日々若返っているのであり、永遠の命の希望が実現する時は日々圧倒的に近づいていると言う。

第五章
というのは、パウロによれば、神は復活の希望を保証するために、肉体がある間は手付け金として神の霊を与えて下さっているのである。だから、肉的な身体は滅びるとしても、霊的な身体で復活するという保証がある。このように、パウロの住所はすでに天にあるのだから、地上での生活は一時的寄留者の状態に過ぎない。したがって、パウロはもはや自分のために生きるのではなく、キリストのために生きると決意しているのである。
だから、パウロはもはや肉的な見方を捨て去って、使徒の資格があることを肉的な仕方で誇るようなことはしない。むしろ、霊によって生み出された新しい創造物として、新しい契約のための大使として、霊的に歩む。こうして人々が神と和解してくれるようにと請願するのである。

第六章
だから霊によって使徒として任命されたパウロは、自分を神の奉仕者として推薦できるように、躓きの原因を作らず模範的に歩むように努力していると言う。そして、たとえ外面的には弱そうでも、実はキリストによって生かされているのである。したがって、キリスト者は不法や不信徒や汚れに染まることから離れて、自分の肉と霊を一切の汚染から清めなければならない。

第七章
パウロは以上の弁論の結論として、コリント教会の一部の人たちは、パウロのことを広い心で受け入れるべきだと言う。
話は2章13節のつづきに戻る。パウロはコリント教会のことを褒めちぎる。パウロはマケドニアに着いた時に迫害や教会の心配事で疲れていたが、テトスと合流できた。そしてテトスから、コリント教会が淫行の事件について真剣に悔い改めているとの報告を聞いて、喜びを得た。この点で、コリント教会は自らを純潔な者として自己推薦したとパウロは褒める。それに加えて、コリント教会がテトスに従順であったので、ますます喜んだ。パウロがテトスにコリント教会のことを自慢したことは恥とはならなかったからである。そしてテトスもコリント教会のことをますます愛するようになっているといって励ます。

第八章
次に、パウロはエルサレム教会への寄付金について不服を述べる人たちを説得する。そして、寄付金がすでに達成されているマケドニア教会とコリント教会を比較する。マケドニア教会は経済的に貧しく迫害にも遭っていたが、喜んで寄付してくれた。それどころか、パウロの生活費までも稼いでくれたのである。ならば、あらゆる点でマケドニア教会よりも富んでいるコリント教会も、喜んで与えるべきではないかと。コリント教会は寄付金回収をすでに実行しはじめていたので、パウロはそれを完遂させるよう訴える。そして、各自強制されてやるのではなく、進んで行なうよう訴える。また、今回エルサレム教会の不足を補うなら、いつかコリント教会の不足した時に、エルサレム教会が補ってくれると説得する。
パウロは寄付金集めのために、テトスと他二名の兄弟(テキコとアリスタルコ?)をコリント教会へ派遣していた。

第九章
パウロがこの三人を派遣した理由は、今度マケドニア教会の兄弟がパウロと共にコリントへ訪問する際、もしコリント教会が寄付金を準備していないなら、パウロが以前マケドニア教会に寄付金を勧めた時に、「コリント教会はすでに寄付金の準備を始めている」と自慢したことが偽りとなり、パウロが恥をかくことになるからだと言う。
そして、無理な額を与えようとしたり、強制されて寄付するのではなく、喜んで与えなさいと説教する。
そもそも、この寄付がなされる真の意義は、エルサレム教会の不足を補うことにあるのではなく、むしろエルサレム教会を通して、コリント教会や諸教会に対する神への感謝が満ちあふれるためであると言う。ここから推察できることは、エルサレム教会が諸教会の本部であり、主な使徒たちや年長者がそこにいたということである。パウロは「我々」と言う時、使徒たちの代表として語っているのであろう。

第十章
ここから、パウロの言動はぶっきらぼうになる。コリント教会には、パウロに不服のある人は多くいたが、特にパウロ批判をして自らの権威を振るうユダヤ人信徒がいたようである。そのような人々から、パウロは手紙では威厳ある話し方だが、実際に遭うと病弱で話も上手でないと言われていた。それに対して、パウロは、自分はもっと威厳があるのだということを主張する。まず、私には不服を言う人々を処罰する準備ができており、今度そちらに行った時には手紙と同じ強い態度で示すと言う。さらに、私は自ら苦労してコリントまで福音を開拓したので正当な権威があるが、自ら開拓したわけでもない人にコリント教会に対して権威を振るう資格などないと主張する。

第十一章
そのようなパウロ批判者のことを、パウロは「優秀な使徒」「偽使徒」と言って皮肉る。そして、彼らが肉的に誇っているので私も多少肉的に誇っても許されるだろうと言って、自分が肉的に誇れる部分を書き連ねる。パウロが人前で誇るようなことはしないのは、決して彼らに劣っているからではないのだと。話術は下でも知識は上である、私は無償で宣教した、彼らよりも遙かに苦労した・・・と。

第十二章
さらに、幻視をみて第三の天(パラダイス)に連れ去られたことがあることを誇る。しかし、これほど誇る理由があるので、神はパウロが高慢にならないように、肉体の刺(何らかの病気)を取り除いて下さらなかったのだと言う。だから、弱さを持っているからこそ神が共にいて下さるということを私は知っているので、もう肉的に誇ったりはしないと結論する。これが、パウロが人前で誇ることをしない理由である。10~12章にかけて肉的に誇ったことはあなた方に強いてさせられたと言い訳しつつも、その不義について赦しを請い、こうして肉的に誇っている「優秀な使徒」への痛烈な批判とする。
パウロは三度目の訪問を計画した。パウロは訪問に際しての不安を顕わにするが、私は全てを教会を築き上げるという純粋な動機で行なっていることを再度強調する。

第十三章
そして次行く時は弱々しく振る舞わず、容赦しないと言いつつ、そうやって心を鬼にするのもコリント教会のことを思っているからだということを再度訴えて、この手紙を終える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?