優生思想から逃れられる者はいない
優生思想とは、以下のように考えることである。
人間は他の生物より人間を贔屓することが倫理である。遺伝的・精神的・物理的に近い生き物は遠い生き物より優遇されるのが情だからだ。より近くてより強い者が愛されるのが自然である。
経済動物に情を持つのが偽善なら、経済人間も同様である。人権は本来存在しない。強きを尊び、弱さを卑しむことこそ倫理である。
肉体的および精神的な弱さは好ましいものではない。ただし、弱さは支配者にとっては利用価値がある。優しくするのは利用価値と扶養コストが釣り合う限りである。逆に有害と見なされれば、暴力によって排除することを厭わない。
災難な境遇が本人の落ち度ではなく仕方のない偶然性に起因すると見なされるなら情も働くが、心身を鍛えれば良いだけなのに弱さに留まる者は軽蔑される。それは生物的な悪徳(甘えと怠惰)だからである。
すなわち情は、当人が考えうる対策をすべて行った上で、それでも至らない弱さに対してのみ働く。しかし、それでも実際に優しく働きかけるのは、利用価値と扶養コストが釣り合う限りである。情と親切は必ずしも同期しない。
群れ意識を持つ人間は、互いにリソースを出し合って相互扶助で生活している。そのため、自分だけ楽をして利益を得る行為は"ずるい"と見なされて忌避される。このようにフリーライダーと見なされて"妬まれ"た者は、群れの力によっていじめを受けて制裁される。
反対に、群れの恒常性維持のために犠牲者となった者は、必要悪として文字通り犠牲となって死ぬが、群れからの情を受けて祀り上げられる。これらが原平等意識であり、ルサンチマンの原理である。
憐憫や同情を忌避するのはルサンチマンの裏返しである。同情されなければ生きられない己の生物的な弱さを受容できないのである。
したがって、現実の自然・社会環境に対して適応能力の低い者は劣る生き物であり、劣る生き物は無闇に保護すべきでなく、淘汰されるに任すのが恒常的である。
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