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友人と私にできた「1年」の差

わたしには中学生のころからずっと仲の良い友人がいる。お互いに一番の友達と胸を張って言える友達で何かあったら絶対相談。私以上に私のことをわかってくれているようなそんな友人。

中高一貫校だったからそのまま高校もずっと一緒。私は周りに愛想を振りまくるタイプで、友人は気の許した人とだけ付き合うタイプ。高校時代はよく面倒ごとに巻き込まれる私に対して、呆れて、でも最後には助けてくれて、あーこんな感じで大人になってもやっていくんだろうなあって思ってた。

友人は大学に行き、私は浪人。たいていの高校時代の友人はもうここで縁が切れてしまったけど、友人だけは連絡してくれたり、たまにご飯に行ったり。友人にも大学生活があるから頻繁に、とはいかないけどそこには確固たる友情があった。

でもたぶん、一年は差を作るのに十分すぎる期間だったんだと思う。

友人は一人暮らしをしていて、私の大学進学が決まった時には家事も完璧で。バイトだって口下手なはずの友人が人と接する仕事やってて。サークルでも幹部をやったりして。高校時代の友人とは全く違う友人がそこにはいた。

眩しい。素直にそう思った。高校時代、月のように後押ししてくれていた友人が太陽みたいに自分から輝いている。時の流れは残酷で、私が浪人している間に、友人は変わった。変わったって表現は少しおかしいかもしれない。大人になった、成長した、という方が正しい。人が年月を経て変わるのは当然で、むしろ私が1年を経て何も変わっていない(成長していない)方が問題だった。

でも、なんだかそんな友人を見て、私は悔しかった。一緒に段階を進みたかった、と思った。一緒に大人になりたかった。私が自分で浪人するのを決めたし、それを後悔はしていない。でも何か言葉にできないものが私の中にあった。

別に性格が変わってしまったわけじゃない。友人はいつも私のことを見守ってくれて、意見を尊重してくれて、優柔不断すぎる私に選択肢を与えてくれて。私にはもったいないほど良い人で。いつでも私の支えで。

どこまでも、私の友人は人として完璧で、優しい。


そんな友人は今、就職活動の真っ最中で、私にはまだ一年の猶予がある。私には日々、友人から就活への疲弊を聞くことしかできない。また、少しの差を感じた。でもある日いつも通り友人と話していたら、「話聞いてくれて助かる」と唐突に言われた。友人曰く、周りの同世代の友人は同じく就活しているから下手に話題を振ったら空気が悪くなるそうだ。

それを聞いてむしろ私が救われた気がした。私にしかできない友人のサポート、初めて時間の差がうれしいものに変わった。友人も私に支えられている、その事実は高校生の頃の私たちを思い出させるようでうれしかった。


時間の流れで、私たちには確かに差ができたかもしれないけど、そんなもので変わらないものもたくさんあることも知った。多分そう思わせてくれるのは、友人が私を見下すことも無く私と接してくれたからだと思う。

私はたぶん、1年の差を埋めることはできない。でも埋めなくていい差のような気がする。1年違うからこそ、私は今余裕を持って友人を応援できるし、友人も胸を張って頑張ることができているんじゃないか。

私はだから、この差の不安を墓場まで秘密にしておく。友人にとっても私が、頼りになる人になるために。そして就活時期がひと段落したら、豪快に祝って、いろんなところに行って、時間という概念すらを忘れたい。

未来はどうなるかわからないけど、この1年の差を乗り切っている私たちならきっと、二人の人生にどんな差ができても大丈夫だと思う。時間の流れは止めたいと願ってどうこうできるものじゃない。だからこそ、時間の流れを大事に、そして時にはあいまいにしなければならない。

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