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あなたは自分で大学を選びましたか?

この記事は、投稿コンテスト「#自分で選んでよかったこと」への応募作品です。


これまでのあなたの人生において自分で選んでよかったことは何ですか?


と聞かれたら、私は迷わずこう答えるだろう。

大学です」



聞いた人からは、大学を自分で選ぶのは当たり前だよね、とツッコまれるかもしれない。



たしかに、基本的に大学は自分で選ぶものだ
金銭的事情から国公立大に行ってほしいと親に言われるなど、条件が付けられる場合はある。
それでも、そもそも進学するかどうか、そしてどこに行きたいかは最終的には受験生自身が決めるのが普通だ。


だから、私が冒頭のように答えたら、「うん、そうなんだ」と相槌を打たれて終わるかもしれない。

しかしあえて私が「大学を自分で選んだ。それはよかったことだ」と答えたのには、はっきりとした理由がある。
そしてその理由を説明するには、まず私が目指した大学の名前を皆さんに伝える必要がある。


私は、東大を目指していた。


意外かもしれないが、他の東大受験生(の少なくとも一部)は東大を自力で目指していないように私には思えた。
受験当時の尖っていた私の認識にもとづいて踏み込んで言えば、周りの声に流されるまま目指しているようだった。

もしその認識が当たっていれば、他の選択肢もあったかもしれない中で、せっかくの選択の機会を十分生かせなかったというわけだ。
とてももったいないことだと思う。

だからこそ私は、東大を目指すことを自分で選んだということに手応えと誇りを持っている

東大に入学してから改めて振り返ってみるとその認識はかなりの程度当たっていたと思うし、卒業した今でも私はそのことに対して危機感を抱いている。


◆ ◆ ◆


私は、「成績が良い奴は東大を目指せ」という日本全体を覆う風潮が好きではない。


東大に合格すること自体が、価値あることのように扱われている。
高校の先生も予備校の先生も、もしかしたら親も、成績の良い学生に対しては東大受験を勧めてくる。


もちろん、東大入試は非常に難しいし、それを突破できる能力と重ねてきた努力は素晴らしい。
東大に合格することの価値は、本当にあると思う。



しかし、成績が良いという理由だけで東大を目指すとしたら、東大に合格したその先の未来を見据えることができていないような気がするのだ。



東大で何を勉強したくて、何を得たくて、何のために進学したいのか。
東大を卒業した後、東大で得たどんなものを生かして、社会でどんな人間として働いていきたいのか。



そういったことを考えずにただ成績が良いから東大を受けますというのは、ちょっと近視眼的な考え方だと思う
少なくとも、受験生時代の私はそう思っていた。


実際に、とりあえず東大に合格しようと思っている東大受験生を何人も見たことがある。
特にそう感じたのは、どの学部(東大では「類」と呼ぶ)を選ぶかという話になる場面においてだ。


私が受けた文系には文科一類、文科二類、文科三類という類があり、一般的には文科一類が最も難しいとされている(近年は議論があるのだが)。
だから、成績が良い受験生ほど文科一類を目指し、成績が少し落ちてきたら文科三類に切り替えるというような傾向がある。


しかし、成績で学部を決めるというのは、私にとってはあまり理解できなかった
「この大学のこの学部でこういう勉強をしたいから、ここを受けます」という風に学部についても自分なりの希望を持つものだと思っていたし、自分はそうありたいと思っていた。



ただ、東大では2年生のときに改めて学部を選ぶ機会があるので、1年生の時点での類はどこでもよいという意見もある。
それでも、1年生のときのカリキュラムは類ごとに少しずつではあるが異なるので、自分の勉強したい分野に従って受験する類を選ぶのが自然なのではないかと私は思った。


だから、受験する類を勉強したい分野ではなく成績によって決めてしまうという傾向は不自然だし、合格したらそれでいいという考え方にもつながる気がして、私はあまり好きになれなかった


じゃあそんな偉そうなことを言うあなたはどうだったんですか、と聞かれそうだ。
私は東大を目指すことを、自分自ら、周りの声に流されずに選んだと胸を張って言える


小学生の頃からテストの点数が良かった私は、中高時代も成績は安定していた。
高校2年生以降に受けた東大模試では、成績優秀者一覧の表に何度も名前が載った。


周囲は私が東大を受験するだろうと当たり前のように思っていた。
私自身も、中学生のときから少しずつ東大受験を意識していた。


ただ、それは成績が良かったからという理由によるものではない。
私の夢を叶えるためには、どうしても東大に行くことが必要だと思っていた。
私にとって、進学する大学は東大でなければいけなかった。



私の夢は、国連で働くことだった。
国連で働いて、世界の諸問題の解決のために力を尽くしたかった。



幼い頃から英会話を勉強する中で、私は自然と海外に興味を持った。
そして次第に、海外で起こっている紛争や貧困などの問題に関心を抱くようになった。
日本で平和に生きている自分にも何か出来ることがあるはず。
そう思って色々調べた結果、国際機関で働いて問題解決に直接携わることを思いついたのだった。


国際機関で働くためには、何らかの専門知識が必要とされている。
そして、専門知識を持っていますということは、アメリカやイギリスなどの難関大学院で修士号以上を取っていることで証明されるようだった。
そのため、私は海外の大学院に進学しようと考えた。
本当は、海外の大学に通った方がそのまま海外の大学院に進みやすいだろう。
しかし、いきなり海外の大学へ進学するのはさすがにハードルが高い。


そこで、少しでも海外の大学院への進学を叶えやすくするために、国内トップの東大を卒業しようと思ったのだった。



東大は多くの海外の大学と交換留学協定を結んでおり、学部時代に交換留学という形で海外の大学に通う機会がある。
受験生時代の私は、国内トップの大学でしっかり勉強すると同時に、交換留学を通して海外の大学院への進学の予行演習や情報収集をしようという計画を立てていた。


このように、私にとって進学先は東大でなければいけなかった。
国連で働くという大きな夢を抱いていたからこそ、東大合格を志すことができた
そして、私は無事、東大文科一類に現役合格した。


◆ ◆ ◆


私がこれほどまでに東大を自分で、周りに流されずに選ぶことにこだわったのには、背景事情がある。


私は、関西のとある田舎に生まれた。

そのことが、私が都会の東大受験生に対して激しいコンプレックス心を抱き、それをバネにして東大合格に向けて努力できた、一番の要因だと思っている。


私の地元では、東大合格者はとても珍しい。


そもそも上京したい人が少ないという事情もあるし、それに関連して、東大受験生よりも、実家から近い京大や阪大を目指す受験生の方が多い。
そして何より、人口があまりにも少ないので成績が良い学生も少ないのだ。


そのため、私の地元は東大受験に適した環境ではなかった。
東大受験に即した授業が行われない。
受験のノウハウが圧倒的に足りない。
東大を同じく志望するライバルが学校にいないため、モチベーションの維持が難しい。

このように東大受験に適した環境がそこまで整っていなかったので、環境が整っている都会の受験生たちが本当に羨ましかった。


もちろん、彼らには彼らなりの苦労があると、東大に入ってから分かった。
例えば、超難関の中高一貫校にせっかく入ることができても、すぐ落ちこぼれてしまい自信をなくして大学受験でも力を発揮できないとか。
ただ、田舎出身の私にとっては、それは努力できる環境があるからこそ抱ける、贅沢な悩みのように思えた。


田舎から東大を目指すには、相当のモチベーションと努力が必要だった。
環境面で不利な自分は、不利な分を圧倒的なモチベーションと努力でカバーすることを決めた。



都会の受験生は東大をすぐ目指すことができる環境にあるし、周りに勧められるまま、東大に入ってからのビジョンを描く必要もなくすんなり東大に合格してしまう人も多いだろう。


でも、私は彼らとは違うのだと思いたかった。
不利な環境の下にいるからこそ、何で自分は東大に行きたいのかや、どんな社会人になりたいのかについて本気で考えてモチベーションにつなげる機会を得ることができたのだ、と考えるようにした。



このような経緯があって、東大を自分で選んだという自負が私に生まれた。
周りに勧められたからとか、東大至上主義のような風潮があるからとか、そういうの全部関係なしに、私は自分の頭と心で東大を選んだのだという強い手応えを得た


◆ ◆ ◆


東大に入ってから、私はものすごい才能を持った東大生にたくさん出会い、切磋琢磨することができた。
しかし、そんなすごい東大生以外の学生に目を向けたとき、私は正直に言ってがくんと力が抜ける思いがした。


彼らは、「普通」の学生だったのだ。


出欠確認は友達に任せて自分は授業をサボるし、ゼミの課題は他のゼミ生のを適当に写しているし、無限にサークルで遊んでいるし。


かなり悪意のある書き方をしてしまったが、そういう書き方をしてしまいたくなるくらい、当時の私は彼らが好きになれなかった。


国のお金でせっかく最高学府で勉強する機会が与えられたのに、そしてそれを自分の手でつかんだはずなのに、そんな態度でいいんだろうか?
結局、東大に合格したことで満足して、それ以上の成長をするつもりがないんじゃないか?


ただ、今ではそういう生き方もありだなと思うし、こうすべきだとかすべきでないとかを他人に当てはめるのは押しつけがましいことなんだなと、ようやく分かるようになってきた。


そして、彼らの態度を見ていたからこそ、反面教師にして自分は頑張ることができたとも言える。
東大を目指すことを自分で選んだからこそ、私は学生生活を充実させることができた。
そういう意味では、彼らは私にとってあながち悪い存在でもなかったなと思った。


◆ ◆ ◆


何かを自分で選ぶということは、自分の手で自分の未来を切り拓いていくということだ。
後から振り返って後悔するような選択をしてしまったとしても、大丈夫。
自分で選んだということ自体に意味があるし、後悔する選択が何か思いがけない展開につながるかもしれない。


また、どんな小さな選択だとしても、自分で選んだのだいう手応えを感じることも大事だ
自分の人生は、他の誰も責任を取ってくれない。
他人からアドバイスをされてその通りにして失敗しても、その他人が仮に謝ってくれたとして、現状は何も変わらない。
自分の人生は自分の責任で生きていくものだし、そのためには自分で選ぶことが必要なのだ。


と、それらしくまとめてみたところで、そろそろお昼時でお腹が空いてきた。
冷蔵庫の中に昨夜の夕食の残り物が入っているから、それを食べようかな。


ーーいや、周りの状況に合わせて選択するのではなく、「自分で」選ぶのが大事だとさっき自分で書いたではないか。
そうだな、今日は近所の洋食屋さんで久しぶりに大好きなオムライスを食べることにしようか。

















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