見出し画像

明日、私は官僚を辞める #13「10歳の頃の夢は小説家?」

キャリア官僚6年目の桜は、ひょんなことから小説家デビューの機会を得て、官僚を辞めるかどうか悩んでいた。幼い頃に小説を書いた経験があることを思い出し、初心に戻るべく実家で当時の原稿を探すことにした。

 土曜日。実家に帰省した桜は、早速10歳のときに書いた小説を探すことにした。キッチンで作業する母の前に顔を出す。

「お母さん、私が小学生の頃学校からもらったプリントとかってさ、段ボールで保管してなかったっけ?」

「してるわよ。桜の段ボールは押し入れの下の段にまとめて入れているはず。何か探してるの? 家に着いたばかりだから、まずはゆっくり休んだらいいのに」

「うん、ありがとう。ちょっと探してるものがあって。見つけたら休むね」

 母に声をかけてから、桜は足早に押し入れに向かった。
 押し入れを開け、下の段にある段ボールの山をかき分けながら原稿を探す。母は、娘が小学校からもらったプリントやテストの解答などを学年ごとに段ボールに整理して保管していた。桜が小説を書いたのは10歳だったはずなので、「小学4年生」と書かれた段ボールを探せばよい。

 お目当ての段ボールは押し入れの奥の方にあった。それを引っ張り出してきて、中に入った書類を一つ一つ出しながら原稿がないかチェックする。
 段ボールの底の方まで手を伸ばして、ようやく原稿用紙の束を見つけた。中を確認すると、原稿用紙の右端に幼い字で「リサの冒険」と書いてあった。

 見つけた。これだ。

 見つけたはいいものの、桜はほとんど内容を覚えていなかったので、まずは全体に目を通して内容を思い出してみることにした。

 「リサの冒険」のストーリーは、主人公である女の子リサが、大好きなお人形遊びをしていると突然お人形の世界に入り込んでしまうという、今で言うところの「異世界転生モノ」だった。
 リサはお人形で遊ぶのが好きだが、勉強はあまり好きではない。この日も両親に「お人形遊びばかりしていないで勉強しなさい」と叱られてしまい、悲しくなったリサはまたお人形と遊ぶことにした。すると、手にしていた人形にいきなり吸い込まれて、気が付くとさっきまで遊んでいたお人形の世界に自分が入り込んでしまっていたのだ。
 リサは元の世界に戻るべく、周囲のお人形たちに協力をあおぎながら元の世界との境界を探す。紆余曲折を経て元の世界に転移できたところで、桜が書いたお話は終わっていた。

「それにしても、お世辞にも上手いとは言えないな」

 読み終えて思ったが、本当に筆が拙い。ストーリーは途中でぐだぐだになるし、登場人物もうまく書き分けられていない。あらかじめあらすじや登場人物の設定を考えておくという小説の基本的な準備作業を全くしていなかったのだろう。そもそも、そのような準備が必要だとも分からないくらい、物語を書くことに慣れていなかったのだ。

 これで当時小説家を目指してますと言ったら、恥をかくに違いなかった。それに比べると、今はだいぶうまくなったと思う。それでも、10歳のときの小説を読んで今の桜が恥ずかしく思ったように、プロの小説家が見ると今の桜の作品もまだまだレベルが低いのだろう。桜は、急に自分の文章に自信がなくなってしまった。

 ただ、この冒険小説を読みながら、書いていた当時のワクワクした気持ちも思い出すことができた。だからこそ、文章を書くのは趣味にとどめておくのが一番だろうと思った。そうすれば、誰かに厳しく批評されることもなく、楽しい気持ちで続けることができる。

 桜の心は、小説家にはならず、官僚を続ける方にどんどん傾いていった。

「受賞、やっぱり辞退しようかな」

 来週、ブログコンテストの担当の佐々木と電話するときには受賞の辞退を申し出ようと思った。

 この原稿も、これ以上読む必要はないだろう。
 そう思って原稿の束を閉じて段ボールにしまおうとした瞬間、ふと原稿の裏面に殴り書きの文字が見えた。当時からいい子だった桜は、いつも丁寧に文字を書いていたので、こんな殴り書きの文字を書くのは珍しい。
 気になってその文字をよく見たとき、桜ははっとした。

『お父さんがコンテストに応ぼするなって言った。でも桜は大きくなったらぜったい小説家になる!!』

 コンテストへの応募。父の反対。小説家の夢。

 これらの単語から、当時の記憶が鮮明によみがえってきた。

◆ ◆ ◆

 桜は、厳格な父と穏やかな母の間に生まれ、5個上には兄がいた。父は特に教育に厳しく、学校のテストで満点が取れないとそのたびに長い時間説教された。兄はそのような父に反発し、次第に荒れて地元の不良グループとつるむようになった。挙句の果てに高校1年生のときには警察沙汰になり、激怒した父に反発して家を出て行った。それ以来、兄は家に帰ってこず、桜も10年以上会っていない。兄の世話に手を焼いた母は、もともと温厚だったが精神的に追い詰められ、桜にも厳しく当たるようになった。

 そのような家庭で育った桜は、自分だけはしっかりしなければと自分に言い聞かせ、波風を立てないように、家族が少しでも穏やかに生きられるようにあらゆることに心を配った。そうしなければならないと思っていたわけではない。むしろそれは、不安定な家庭を乗り切るために桜にとって必要な処世術だったのだ。

 兄が荒れ始めてから、父の期待は全て桜に注がれることになった。小学生のうちから「桜は東大に行くのだ」とことあるごとに言われ続けた。そのストレスから逃げるように桜は本を読み漁り、物語の世界に浸っていた。好きが高じて自分でも物語を書いてみたくなったので、「リサの冒険」を書き、小学生向けの小説コンテストに応募しようとした、そのときに父に見つかったのだった。

「小説を書くなんて、そんな時間があるなら勉強しろ!」

「勉強はちゃんとやってるよ。空いた時間で何をやっても桜の自由でしょ」

「いや、父さんは認めん。小説は暇な奴が書くものだ。桜には他にすべきことがたくさんあるだろう」

 桜がどれだけ主張しても、父は頑としてコンテストへの応募を認めず、原稿は父に没収された。その当時読んでいた本も全て父の部屋に移された。ただ捨てるまではされず、ほとぼりが冷めたときに返してもらった。そのときにあのように殴り書きをしたのだった。

 ここまで思い出したところで、桜はもう一度殴り書きされた文字をじっと見つめた。

『大きくなったらぜったい小説家になる!!』

 この一文が、ぐっと桜の心に刺さった。

 実際に、「リサの冒険」事件の後も桜はしばらくの間小説家を本気で目指していて、小説家になるために何が必要なのか自分なりに調べていた。しかしその中で、小説家一本で生計を立てていくのがどれほど厳しいかを知って、気持ちがかなりくじけてしまった。また、中学生になってからは勉強と部活で忙しくなり、小説を読んだり書いたりする時間がどんどん減っていった。加えて、桜の学校は進学校だったので周りは難関大学を目指す生徒ばかりで、小説家を目指す生徒は皆無だった。

「いつのまにか、私は小説家の夢を忘れてしまっていたんだ・・・」

 そうつぶやいて、もう一度原稿の束を開いて10歳の自分が書いた文字の列をじっと見つめる。

 主人公のリサが母に反発してお人形遊びにふけるシーンが、「東大を目指せ」と頭ごなしに父から命令されていた当時の桜に重なった。そして、お人形の世界に吸い込まれてしまうというストーリーは、当時の桜が現実の世界に不満を感じ、違う世界で生きてみたいと思っていることを表しているかのようだった。

 結局、当時の桜は違う世界に飛び出すこともできず、穏やかでない家庭と厳しい親という現実の世界で生きる中で夢を忘れ、現実的な道を歩むこととなった。
 今はどうだろうか。高い志を掲げてキャリア官僚になったものの、自分の能力を最大限に発揮して充実したキャリアを歩むことができずにくすぶっている。

 そのとき、自分がコンテストに応募した小説のストーリーがふと頭に浮かんだ。
 主人公は、前世の記憶を取り戻したことで社会の見え方が変わり、自分を縛っていた考え方を変化させて自分らしい人生を生きようと挑戦を始めた。

 その姿は、桜が潜在的に求めていた生き方なのではないか? 
 こんな話を書きたいというインスピレーションが湧いたということは、心のどこかでそのような、何にも縛られず周りに流されない自立した生き方に憧れていたということなのではないか?

「現実の私も、今こそ新しい世界に飛び出して、夢を叶える人生を送るときが来たっていうこと・・・?」

 10歳のときに書いた小説。そのとき抱いた夢。現在の自分の状況。そしてこの間自分が書き上げた小説。
 これらの点が全てつながって線となった瞬間、桜は自分の前に道がくっきりと一本見えた。

「官僚を辞めよう。そして、小説家になろう」

 今度こそ、17年ぶりに夢を叶えるのだと桜は固く決意した。

 10歳のときの原稿は、東京の家に持って帰ることにした。桜が今しがた固めた決意を忘れないでおくために、いつも目につく場所に置いておこうと思ったのだ。

 押し入れに段ボールをしまうと、桜はまたキッチンに顔を出して、母に尋ねた。

「今日、お父さんいつも通り家で夕食食べるよね?」

「そうだけど、お父さんがどうかしたの?」

「お母さんとお父さんに話したいことがあるから、夕食のときにちょっと時間もらうね」

「ええ、分かったわ。それはそうと、さっきおやつ買ったから食べていったらいいわよ」

 そう言って、母がスーパーで買ったスイーツを冷蔵庫から出してきてくれる。

 兄が家を出て行ってからしばらく経つと、母は精神的な落ち着きを取り戻し、以前のような穏やかな母に戻った。

 今夜、桜がキャリア官僚を辞めることを話すとき、両親はどんな反応をするだろうか。
 少なくとも母はいつものように穏やかに話を聞いてくれるだろう。問題は父だ。父は、桜が成人してからはあまり口うるさく言わなくなったが、それでも帰省するたびに「東大生なら官僚になれ」だの「ちゃんと出世しろ」だの、色々と注文をつけてくる。今回も反対してくるのは目に見えていた。

 でも、もうお父さんの言う通りにはしない。私は、私が決めた道を行くの。

 10歳の自分が書いた原稿を胸に、父と真っ向から対峙する自分を思い描いて、桜は気合いを入れた。





◆ ◆ ◆
続きはこちら🔽

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?