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明日、私は官僚を辞める #01 「キャリア官僚の日常」

 夢を追って安定した地位を捨てるのは、無謀な決断なのだろうか。
 夢を追って、高学歴だからこそ享受できたメリットを捨てるのは、愚かな選択なのだろうか。

ーー明日、私はキャリア官僚を辞める。そして明日、私は夢を叶える。

【あらすじ】
主人公の桜は某省庁で働く6年目のキャリア官僚。毎日の残業で疲弊していたところ、同期の女子会に呼ばれて参加すると、彼女たちが悩みながらも前向きにキャリアを築いていく姿に刺激を受けた。

自分も人生を充実させようと趣味のブログを再開し、軽い気持ちで小説コンテストに応募したら、なんと大賞を受賞。小説家デビューの機会を得る。

官僚を辞めて小説家になるか、それとも官僚を続けるか。悩む中で、小説家は幼い頃の自分の夢だったことを思い出し、官僚を辞める決断をした桜。周囲のさまざまな声を受け止めながら、桜は夢を叶える一歩を踏み出したーー


◆ ◆ ◆

「国会が当たりました! 安田係長、メールの確認をお願いします!」

 ここは東京・霞ヶ関のとある省庁。15時を少し回ったところで、白川桜しらかわさくらがいる部署の隣の総務課が、1通のメールの受信をきっかけにざわつき始めた。

「ああ、生活党の田中君? ならいつもの調査課にお願いしようかな。佐々木くん、添付資料を印刷して」

 同期の安田俊やすだしゅんがメールに目を通してきぱきと部下の佐々木に声をかける様子を、桜は自分の席から視界の隅で確認した。恐らく今から安田は調査課の桜のもとに来て、生活党の田中議員に関する仕事を依頼するはずだ。
 佐々木が言っていた「国会が当たった」とは、翌日の国会のために今から準備をしなければならないことを指す。他のどんな業務よりも優先して対応しないといけないので、これから夜にかけて忙しくなるのはもう目に見えていた。

 今夜もタクシー帰りか。

 桜はひそかに覚悟を決めて、仕事の手をいったん止めた。

 案の定安田が、印刷した添付資料をひらひらさせて桜のいる調査課の方に近づいてくる。調査課の皆が、これから来る仕事の重さを予期して身構えた。そんな中、安田はいつも通りの飄々とした様子で桜の席の前に立って資料をデスクの上に置き、簡潔に告げた。

「桜、田中君が当たった。16時から議員会館で問取りレクをお願い」

 桜はさっと資料に目を走らせた。内容を確認し、思わず顔をしかめる。

「今回の法改正による介護業界への影響について。一昨日もこれを質問してたと思うけど、また田中君はこれを聞いてくるわけ? 毎回懲りないわね」

「ほかに質問することがないんだろ」

 安田はつまらなさそうに言った。

「それより、レクに行く人はどうする? 江田補佐は今日は不在なんだっけ?」

 そうか、レクの対応者を決めなければいけない。桜は、お昼を過ぎて少し回転が遅くなった頭を必死に働かせ始めた。


ーー桜は、この省庁で働いて6年目のキャリア官僚だ。最近は残業続きでかなり疲弊している。そして、今日も今日とて国会対応に忙殺されていた。

 国会対応というものは、他の業界では経験しえないであろう、キャリア官僚特有のユニークな業務だ。その全貌を知ってもらうには、少し説明が要る。

 前提として、国会対応とは主に、国会で答弁を行う総理大臣や各府省庁の大臣のためにキャリア官僚が答弁案を作成することを指す。国会の中継を見ていると、総理大臣や各大臣が手元のメモのような紙に目を落としながら質問に答えているのが分かるだろう。そのメモ(答弁書と呼ぶ)を作成しているのが、キャリア官僚なのだ。

 答弁書を作成する過程では、毎回緊張を強いられる。というのも、必要な作業量に対して対応できる時間が非常に短く、ミスのない迅速な対応が求められるからだ。まず、国会議員が「○○について明日の国会で質問しますよ」という通告を出す。その通告を受けた各府省庁の担当部署は「問取りレク」と呼ばれる議員との打ち合わせに向かう。議員の質問を正確に把握するのが問取りレクの趣旨だ。そのレクの内容をもとに答弁の方針を定め、実際に答弁書を作成する。要望を出されるのが国会の前日であることも多く、作成過程で多くの部署と協議する必要もあるため、とてもタイトなスケジュールで動かないといけない。

 問取りレクは、通常は「課長補佐」と呼ばれる10年目前後の中堅職員が対応に当たる。

 しかし、今日は。

「江田補佐は、お昼明けから自由党の本部に呼ばれて外出中なの」

「そうか。補佐が不在の場合は室長にお願いする方針だけど、手塚室長はどうしたの?」

 いつも通り出勤しているはずだけど、と言おうとして、桜は背後の手塚の席を確認した。

 いない。

 桜の心臓がどくんと鳴った。何だか嫌な予感がする。

「あれ、さっきまでいらっしゃったはずなんだけど。青木くん、手塚室長ってどこかに外出されたのかな?」

 桜の右隣の席に座るフレッシュな1年目の青木は、桜と安田の会話を聞いていたようで、威勢よく答えた。

「手塚室長は、さっき局長に呼ばれて出ていきました! 長引くかもって仰ってたので、問取りレクには間に合わなさそうっすね」

「そうなんだ。レク対応は課長には頼めないし、残るのは」

 桜は、安田と青木の視線を一手に引き受けて、ため息をついた。

「私ってことね」

「ということで、桜、問取りレク頼んだよ」

 安田は軽いテンションで桜に告げ、くるりと背を向けて隣の課に戻って行ってしまった。

 やれやれ。桜の仕事が増えた。

 議員会館に行くだけでも気が張るのに、議員本人と直接話し、必要あらば質問にも答え、こちら側の疑問点はクリアにしなければならない。これから安田が置いてあった資料を読み込んで、直近の国会での答弁内容をおさらいしておかないと。

 そんなことを考えながら安田の背中をぼんやり見つめていると、何だか右から熱い視線を感じる。

「係長、すごいっすね! 普通問取りレクは係長級では行かないっすよね! 応援してます!」

 青木にとっては問取りレクは未知な業務で、これまで携わったことがないため何だか面白そうなものに思えているらしい。実際、何も面白くないのだが。
 桜は新卒時代に、上司に同行してレクに参加したことがある。実際、レクに行くと議員に対する振る舞い方が学べるし良い経験になる。だが、緊張しいの桜にとってはできることなら回避したい業務だった。

「うん、ありがとう。でも問取りレクに行くのなんて5年ぶりだな。当時は補佐陣の脇に控えていればよかったけど、今回は補佐の立場で行くわけなんだよね。実際に議員の先生とお話しするのは初めてだから、緊張しちゃう」

「ま、何事も経験っすよ、経験!」

 何の励ましにもならない青木の言葉に特段のリアクションをせず、桜はさっさと準備をすることにした。椅子の背にかけていた紺色のジャケットを手に取る。そして、ノートとペンをかばんに入れる。身なりを簡単にチェックして、桜はよし、と一人で気合を入れた。
 通常、問取りレクには複数の補佐が参加する。桜一人ではないことは、少しだけだが安心だった。心を落ち着けるために一呼吸し、桜は席を立つ。

「レクに行ってまいります」

「お疲れ様です」

 うん、本当にお疲れ様な業務だ。

 課内の職員からの声かけを背に、できるだけ軽い足取りを心掛け、桜は部屋の入口に向かった。



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