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残るもの残すもの

勉強 実用

どうしても残したい記録はどうやって残せばいいのだろうか。
できるだけ頑丈なモノにできるだけ消えにくい方法で?
人類が大昔からやってきたのは
固い石・岩に物理的に刻み込む方法。
確かにこれは何千何万年も残るすごい方法である。

そういう残し方の一つに
津波の被害を記して警鐘として残された津波石というモノがある。
三陸地方にあるものが有名になってしまったが
津波は日本各地で猛威を振るったので
自分が初めて目にした四国の津波石を紹介したい。
徳島市の「沖洲(おきす)」というところには
安政南海地震での地震と津波の記録と警告を記した「百度石」で有名な蛭子神社がある。
安政南海地震は1854年嘉永7年11月5日(陰暦)に起こったが、その年の11月27日に安政と改元されたので安政の年号で呼ばれる。

百度石

百度石はもともとお百度参りで使われるもので、例えば寺社の入口の鳥居から社殿・拝殿までを百回往復する目印にしたものだ。
だから、たくさんの人が触るし・目にも触れる。
紙ではなく、後々まで残る石に刻まれた震災の教えは日本各地にあるが
百度石に刻んだのは、なかなかいい考えだと思う。

さてこの石が建てられてからすでに172年経っていて
石の両側の面は剥落してしまっているが
裏側に刻まれた文字はまだ読むことができる。
記録によると
「嘉永七寅年十一月五日、大に地震ふ。人々うろたえへ、木竹の根からみせし中
へかけ込み、津波来ると騒ぐ声におどろき、舟に乗しはおし流され、危(あやう)
きを助かり、又舟覆(くつがえ)りて命を失うも有り」
「必ずふねには乗べからず。家潰、炬燵竈より火起こり家蔵多くやけぬ。かかる
折はこころを沈め、火の元に用心肝要なり。百年経ぬる程には、かやうの震」
「濤有りと聞く。故(ゆえ)こたび氏神の広前にもも(百)度石を建る」
現在読めるのは「必ずふねには・・・」の面のみだが
昭和35年の写真には「嘉永七年・・・」の面も写っている。

裏面

というわけで、この「警告文」はまた石にでも刻んで残さないと
と思ったら、隣にちゃんと看板が立っていた。

立札

調べてみるとこの神社がここにできたのは文久元年(1861年)の9月で
江戸時代の古地図と現在の地図を合わせて見ると
ここは元々沖洲島と書かれた河口の島で
現在神社があるのはその海よりの場所だったようだ。
(平成15年に道路の向かい側から移転しているが場所はほぼ同じ)
きっと、海に向かって建てることで
津波を鎮めたいとの願いもこめていたのだろう。

さてそこで
忘れてはならない記憶をこのように長く記録として残す
だけでいいのかというと決してそうではなく。

NHKの「東日本大震災アーカイブス」を時々見ていて
先日、岩手県大槌町の

を見て、なるほど、確かになあ、と思った。
大槌町にも過去の津波を刻み込んだ石碑はあったが
それはすっかり見慣れた“風景”になってしまっていたのだと。
だから、風景にならないように
わざわざ・あえて、傷む木材で碑を建てて
オリンピックの翌年に建て替えるようにすれば忘れないだろうという考えで
4年に一度建て替えることにしたと。
(ちなみに自分の高校の同期会も4年に一度でオリンピックの年にやる)
こうすれば
そこに住んでいる人たちが建て替えるたびに
ここまで津波が来たのだと思い起こすことができると。
日本のあちこちには
大きな災害を末永く残そうという「石碑」が立っている。
確かに石は長い年月そこに立っていられるのだが
基本的に“メンテフリー”で・放っておいてもそこにあるので
意図とは逆に当たり前の景色になってしまうのだなあ。
せっかくの石碑も読まれなくては意味がない。
そして、わざわざ読もうという人はお勉強好きのモノ好きと言われがちで。
あえて手間をかけることで
それとつながり続ける・意識し続けることができるのだ。
そのとき忘れてはいけないのは
どうして「あえて手間をかける」のかを伝え続けること。
人間、理由の無いことには続ける意味を見出せないから。
めんどくさい
と思ってやるようになったら要注意なのだ。


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