物語 根の国(1)

★レモンの月

ボクはからっぽになって寒くて白くて暗い街を歩いていた。
急ぎ足でないと死んでしまう気がした。
今度は仕事を見つけないとマズイのだと思い詰めていた。
意地悪をするように青信号が点滅して赤になってしまったので
その場で身体をゆすりながら待っていると視界の上にレモンのような月が目に入った。はっとして見上げるとそれはビルの二階の真っ暗な窓に映った街灯だった。
ただ青白くのっぺりとした「月」は自分のようだと思った。
信号が変わって再び急ぎ足で交差点を渡り「月」が映っていたビルの前を折れると今度は暗い中に浮かぶ白い四角が目の端に入った。
ビルの一階の窓に張り紙がある…。
ボクはその紙に引っ張られるように足を停め後ろ向きで3歩戻った。

「アルバイト求む 本の好きな方 事務仕事など」

「本の好きな方」 という言葉がこっちを見ていた。
もうすでにその言葉にすがるような気持になっていた。

ビルのガラスと金属の玄関を開けて薄暗い廊下の左手、張り紙のあった窓の部屋はここかと立ち止まるといきなりそのドアが開いた。右手に紙をつまんで掲げた男がボクを見た。部屋の中は暗い。
手にしているのは外で見たのと同じ張り紙だ。ぴんと伸ばした右手の人差し指に短いテープが2つついている。
「えと…」ボクはそのこれからこのドアに貼られるであろう紙を指さした。
「ああ、あっちのを見てくれたのね」
その人は「にゅいっ」と笑うと「ささ」とドアの中にボクを招き入れて灯りを点けた。

「これを貼って帰ろうと思ったのよ。」
「今珈琲入れるからね。そこ座っててね。」
示された古い長椅子は手のひらみたいに少しくぼんですり切れた布が長年人が座った場所を教えていた。ボクはちょっとばかり困ってからその少しくぼんですり切れたところにお尻を乗せた。
奥からざらざらっと音がしてその人がコーヒーミルを持ってきた。
「これ、ひいてね」その人はまた「にゅいっ」と笑うと衝立の向こうへ消えた。衝立の向こうに流しとガス台があるようだ。白髪まじりのくせっ毛が「文化人」みたいに首の後ろで束ねてある。

ミルのふたを少し開けてのぞくと結構な量の珈琲豆が入っている。濃い香りがした。
ボクはふたを閉めてミルを膝に据えてごりごりとハンドルを回した。
強く香りが立ってくる。
(ああ、久しぶりだ…)
ごりごり (美術関係の本があるな)
ごりごりごり (ジャズコンサートのポスターだ)
ごりごりごりごり (古そうな本がたくさんあるな)
膝の上のミルを押さえつけてハンドルをごりごり回しているせいか身体がほんのり温まってきた。濃厚な珈琲の香りが身体を包み込んでくきて、衝立の向こうでお湯の沸く音が大きくなっていく。

その人が黙って真剣に珈琲を落としているのをボクは首を伸ばして見ていた。もう部屋の中は珈琲の香りで一杯だ。改めて見回すと学校の教室くらいの広さでずいぶん古い建物のようだ。机も本棚も戸棚も昭和(?)の香りがハンパ無い。ただそこにパソコンやコピー機やホワイトボードが同居していた。
その人が両手にコーヒーカップを持って歩いてきて右手のカップをボクにくれた。
「寒かったでしょ」
こういうときは何をどう言えばいいのだろうかと困ったがいつも通り頭の中はしょうもなく空回りしていたので黙ってうなづいて受け取ったら「いただきます」と声が出た。
ちょとほっとしてカップに目をやると
(え・ジノリだ)
その人はまた「にゅいっ」と笑った。
「ジノリ、知ってるんだ。」

(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?