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エッセイ:清潔な貧しさ


雑談中、スマホをいじっているので何を見ているかと問えば、こちらのいっていることが正しいか確認しているという。他愛もない話なのに。
答えなどなくていい馬鹿話でも、正しさが気になるひとは気になるらしい。

検索するかAIに訊けばたちまち「正解」が見つかる今日。正しさとは己の外に、つまり外在するものであるとすると、考えることから解放され、ひとは自由になったといえるでしょうか。いえるとしたら、同時に外在する正しさに抑圧されているどれい、、、であるとも、正しさという名のまなざしに監視されている囚人、、であるともいえましょう。

ハラスメント、コンプライアンス、いわゆる政治的に正しいとされる画一的な正義のまなざしを無視して暮らしていけぬ世にあっては、自らの由る根をうしない、個人はバラバラになっていくのは必定であります。なぜなら正しさが外在するというのであれば当事者どうし、すなわち場をともに分かつ己と他者との折り合いをつける必要はないからです。

ある若い首長が就任そうそう議会と対立したといいます。原因は居眠りしていた議員を直接注意するでもなくSNSで発信したからで、対立後も動画配信やSNSを駆使して世に「正しさ」を問いつづけたらしい〈🔗〉。バズる市長などと呼ばれ人気を博したようですが、議会とは本来、共同体のための正しさを議論する「内向き」の場であるという認識はないのでしょう。正しさを外部に求めるとは、すなわち自分たちの正しさを放棄するということでありますので自己欺瞞といっていいのですが、自らの由る根をうしなったのは、なにもこの首長とその支持者ばかりではありますまい。
現代ニッポンの縮図といっても過言ではないでしょう。この根なし草のありようは。

民俗学者の宮本常一(1907~1981)が「寄りあい」ということを書いておりまして、かつては神社につどい膝を突き合わせ、みんなが納得するまでながながと話し合ったといいます。摩擦や軋轢などもとうぜんあったでしょうが、それでも話し合わないことには自分たちの正しさを求めえなかった、話し合い、折り合いをつけることがひとと人とを結びつけ、人々の紐帯となる価値観と共同体への帰属意識をはぐくんできたということでしょう。

ひるがえって現代――
政治的な正しさポリコレという名の画一的なまなざしに監視された社会においては、他者との軋轢だの摩擦だのといったものはリスクでしかありません。極力他者との接触を避けようとする潔癖社会であるといえますが、果たして目指すべき理想的な世のありようなのでしょうか。
はなはだ疑わしい。


ユートーピアの世界では、私たちは孤独になるばかりです、それは一口にいえば、摩擦のない清潔な貧しさとでもいうものでしょう。

『快楽と幸福』
福田恆存



摩擦のない清潔な貧しさとは関係性の希薄と言い換えられ、関係性の希薄な集団からは成員が共有しうる己の正しさなど求めようがない、ゆえに正しさを己の外に求めるのだといえましょう。しかしそれは、己の生き方を他者に委ねることであります。
呑み込まれるまえに、己の正しさを取りもどさなければなりませぬ。
理想的な社会ユートピアも行きつくさきは、理想にしばられた全体主義社会ディストピアでありましょう。




↓近未来ではありません、今です




↓寄りあいとかいわれてもピンとこなくて当たり前
(追記:読み返してみたら神社に集まるとは書かれていませんでした)