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エッセイ:ラブレター

書くとは恋文を綴ることと見つけたり(ナンチャッテ)。
思索よりも、実感が確かなものを教えてくれることがあります。

本当ならば今頃 ボクのベットには
あなたが あなたが あなたが 居て欲しい

『ラブレター』ザ・ブルーハーツ


あれもこれも

現代人は忙しい。一つ事に没入している暇はない。付き合いもある。兎も角情報は入れとかなきゃ。で、あれもこれもという在り方になる。あれもこれもとは節操がない。節操がないとは葛藤がないと言い換えられ、葛藤なき故に容易く垣根を乗り越える。あれもこれも、なんでもあり。テレビをつければ横並び、どこもグルメリポートばかりですが、あの人達は馬◯なのではありません。ニヒリズムです。何も信じてはいないのです。食えば美味いかどうかはわかります。それでいい。考えないはコスパがいい。とは誰のせいでもありません。嫌なら見るな、ニヒリズムからは何も生まれない。生存のために食い尽くすだけで。
文学は、あれもこれも選んでいるようでいてその実何も選んで(信じて)いない在り方からは生まれません。他者を求め、あれかこれかというイノチガケの行為から、本当の文学は生まれます(多分)。


あれかこれか

書くか書かぬかと作者自ら選ぶのではない、他者を求め、止むに止まれず書くのである、とは実感が言わしめるのですが、同じく実感に依り、書く主体たる「私」とはつねに他者との出会いによって与えられるものだと措定致しますと、そもそも「私」は書く前に存在するのでしょうか。否。作者は書く前、言葉以前の場所で、あれかこれかの賭博の世界で、胴元にひとまず「私」という仮象を預け、他者と出会う時を待つ。


無であり有である

他者と出会えば「私」は有り、出会わずば無い。畢竟あらゆる「私」とは無であり有である、他者との関係性を前提とした仮象でありますが、風なくば波なきように、他者なきところに「私」なく、虚無である。虚無とは孤独である故に、他者を必要とする、渇愛する。渇愛が因であり、あたかも崖の手前にあって彼岸に他者を観じ、止むに止まれず自ら橋となる時、初めて虚無から「私」という有、即ち自意識が立ち上る。ここに一切が始まる。書くとは自身が橋となり、他者と己とを結ぶイノチガケの行為ではないでしょうか。手を離せば、不用意に身体を捻れば、書き終えれば奈落の底に堕ちてしまう、終わる、それまでのイノチ。
フランツ・カフカにそんな短い物語があったように記憶しておりますが、文学とは孤独に依り、渇愛し、止むに止まれず己のイノチ(有)を賭ける企てであり、作品とは他者たる彼岸に向けて書かれたラブレターである、と言い切ってみると、しっくりと、来ませんでしょうか。


本当ならばの本当

本当ならば今ここにいて欲しい他者を観じ、渇愛し、恋文を綴るときの「私」とは、本当の私である。本当の私とは他者たり得ず、他者との関係によってのみ立ち上り、今ここに有り、自在に書いているこの私であります。今という実感、この私という実感がある今、私はこの私以外では有り得ぬ、故に私は本当である。文学の救いとは束の間のイノチ、この私の生の実感である。恋文を綴る今においてだけ私は生き、本当である。この実感が世界を反転させ、私のイノチ以外はすべて虚像となる。とは夢幻であろうか。然り。夢幻である。
すべてはせはしく明滅する仮象である。有であり無であり、世は常ならず空である。会わずば無であり、会わば有となり、去れば無に帰す。有るとは畢竟仮象であるが、だから何であろうか。
夢幻でもいい、虚無に抗い、束の間の夢を見る。
苦しみについてはどうでもいい。
他者を渇愛する凡夫でありたい。



ワカイネー