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【映画の感想】ミッドナイトスワン(2020 日本)


内田英治監督・脚本、草彅剛主演の日本映画。公開は2020年。トランスジェンダーの女性、凪沙とバレエの才能溢れる少女、一果との交流を描いた「悲しい」物語です。ストーリーは割愛、ネタバレあるかも。


良かったところ

泣きたい時に泣くために観るにはいいんだろうな、とは想像ですが、「悲しい」お話としては成立していると思いました。良かったのはこの点です。泣きたい人にはいいんだろうねと。
トランスジェンダー、貧困、シングルマザー、児童虐待、差別、同性愛、挫折、自傷、自殺、とこれでもかとトピックが出てきますが、葛藤があり克服されるわけではなく終始一貫して淡々と進む(涙も流れるのですが)暗ーいお話です。とはいえバッドエンドでもないので観る人によって印象は分かれると思いますが、ネットで見ると概ね高評価のようです。本稿の主張は少数派でしょう。以下に良くなかったところを記して参ります。


構造が描かれていない

冒頭、主人公凪沙による「男に消費されたらおしまい」というセリフがあります。冒頭に持ってくるくらいなので、男に消費されざるを得ない社会の構造を描かないと。主題ではなくとも、せめて暗示するようなシーンでもあればと残念。トランスジェンダー女性である凪沙は客の男に「男」と言われ「オカマ」と呼ばれます。観者としては差別発言に不快感を覚えるわけですが、それだけです。一果のレッスン代のために「堕ちて」身体を売ろうとする凪沙は何故「堕ち」なければならなかったのか。何故凪沙のような者は「ずっとひとりで生きていかんとならん」のか。トランスジェンダー女性の生きづらさは感じ取れるが、構造が描かれていないので周りの男たち、ひいては大人たちがただ「悲しい」物語のために都合良く配された独りよがりの愚か者にしか見えない。


出てくる男(または脇役)がことごとくスッカスカなのは制作者の意図(?)

凪沙の勤めるショーパブにくる男たち、金を払い少女の写真を撮る男たち、その場を提供するスタジオ側の人間も男だし、凪沙が一般職に応募した際の面接官の男もスッカスカです。制作者はこの男に「LGBTって大変ですよね~」とか言わせるのですが、もう一人の面接官は女性で、この男を窘めるなど女性の言うことは真っ当。「男」=馬鹿と図式化された演出が意図的なのは明らかで鼻白む。フェアじゃないし、リアルじゃない。もはやポンチ絵。あ、あと撮影スタジオにくる警察官も女性でしたね。個人情報を漏らしていてこれはあかんやろとツッコミを入れましたが、警察官が女性であるのは意図的だろうと推察致します。凪沙が身体を売るのが嫌で逃げるシーンの後に出てくる警察官は男性ですが、間の抜けた感じがするのも演出でしょう。


人物がペラッペラ

一果の母親(凪沙のいとこ)は毒親、飲酒、ネグレクトから何がどうなったのか不明だが、真人間となり広島から東京に娘を迎えにくる。バレエのコンクールのシーンでは舞台で茫然とする娘を抱きしめるのですが、あんたそんなキャラやったんかとポカンとなる。凪沙を「化け物」と呼ぶあたりも何だかなあ。君はきっとろくに人物造形もされず「悲しい」お話のために出てきたんだね。「一人での子育てがどんだけ大変かわかるかー」ってキレてたけど、大変さが描かれていないので、お察しは致しますが、わかりたくてもわかりません。君の怒りは制作者に向けるべきなのです。
一果の友達りんの母親も同様にペラッペラであります。実績あるバレエ経験者で、抑圧的で娘を所有物と思っていそうなタイプ、である必然性はどこにもないんだけど。ステレオタイプの上流教育ママ。大人は何もわかってくれないとでも制作者は言いたいのだろうか。怪我が原因でバレエを諦めたりんが自殺する理由は何だったのか。母親か挫折か。自死の必然は何処にある。制作者の稚気を感じた。
母親ついでにいうと、凪沙の母親は息子がトランスジェンダーであることを知ると凪沙を拒絶します。葛藤は描かれません。ただ「悲しい」物語のために拒絶するのです。まともな大人が出てこないのもそう、すべては「悲しみ」のために都合の良い造形。一果とりんの通うバレエ教室の先生は、一果の才能を見出し、育てたいといいます。が一方で一果以外の生徒に興味を失う、なかなか駄目な大人です。もしかしたらりんは先生に見放されたとき最初に自殺を思ったかも知れませんね。まともな大人がいないから「悲しい」物語になったと思えればいいのですが、制作者はただ悲しいお話をこしらえたかっただけなんじゃないかなーと思います。トランスジェンダーを描きたかったわけではなく。必然がないんよね。ラストも何だかねえ。


悲しみよ、コンチャー

凪沙は一果と出会い、共に生活をしているうちに情が移り、一果と疑似親子となります。が、このあたりの経緯もわかりにくい。凪沙のセリフに「うちらみたいなんはずっとひとりで生きていかんとならんのじゃ。強うならんといかん」とあったので、情が移ったのだろうというのは推察ですが、兎も角凪沙は母性に目覚め、これもまた大変わかりにくいのですが、一果の母親になるために性転換手術を受けます。で術後が思わしくなく、瀕死の状態に陥りますが説明はない。物語の終わりの方ですが、性転換手術ってヤバいん? 病院行ったらええやん? 置いてけぼり感はなかなかです。とそこへ中学を卒業した一果があらわれ、甲斐甲斐しく凪沙の世話を焼きます。部屋を掃除しご飯をつくります。いつの間にか介護の話になっております。ヤングケアラーですね。ただ制作者の意図として、物語の前半、凪沙の元へ転がりこんだ一果は掃除も料理もできなかった(しなかった)ので、一果の成長を描きたかったのでしょう。
ところでバレエの才能があり奨学金を得て海外留学も決まっている前途洋々たる一果と、貧しく死にかけているトランスジェンダー女性凪沙。かつては社会のはみ出し者同士身を寄せ合って暮らしていたのに、何故こんなに差が開いたのでしょう。天と地ほどの違いです。「天」は、一果のバレエの才能と努力だとしても、ここで問うべきは「地」、何故凪沙はかくも不幸にならなければならなかったのか。繰り返しになりますが、必然がない。まさかトランスジェンダーの人は不幸であるはずだと言いたいわけではないでしょうに。


そろそろまとめろや

凪沙の願いで二人は海に行きます。病院ではありません。砂浜で流木に腰を下ろし意識も混濁し海を眺める凪沙がその後どうなったのかは不明ですが、死んだとしたら、制作者に殺されたのでしょう。
トランスジェンダー女性の物語を制作者は何故描かなければならなかったのか。
トランスジェンダーの物語は何故かくも悲劇的であらねばならなかったのか。
偏見を助長するだけなんじゃないかと思いました。