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エッセイ:考えるべきは何かと考え中


例えばです。大学で哲学を教えているいい歳をした大人がいじめに遭い、私はいじめられただの、周りのみんなは大人なのに幼稚だのとウジウジしているのを見たら、疑問に思いませんか。哲学は人を救わないのかと。


考えるために考える

ではいけません。偉大な哲人の考えを頭に入れただけでは人を救う「生きた」思想は生まれない、ということではないでしょうか。以前ポストモダンの難解な書物の解説を試みる、聡明風な記事を目にしズッコケたのですが、のっけから「個人と個人とは対等である」とくる。世の人間関係は全て根底に力関係があります。故にいじめも差別も戦争もなくなりません。書を捨てよ、街に出なくとも、ちゃんと人を見なさいよ。
おそらく問題は哲学という学問が扱う人と、実際に今ここで生きている人との乖離ではないないかと思います。イマヌエル・カントは江戸っ子を思い浮かべながら道徳を考えたのでしょうか。んなワケはないのでありまして、乖離は読み手が考えることで埋めなければなりません。人は抽象的な存在ではなく、今ここで生き、そして死につつある具体的存在なのですから。


何のために何を考える

苦から解放され、楽になるために、いわば「自由」を手に入れるために考えるのだと、そう思いますが、凡そ言葉で捉えようとするものは全て仮象であるかも知れません。しかし仮象であれ「自由」を掴もうと抗うことには、何かしら人を惹きつけるものが、悪あがきといってもいいのですが、人間らしい、生きたものがある。
では何について考えるのかと申しますに、苦についてでもなければ楽についてでもなく、苦と楽との関係性について考えるのが宜しい、同様に、己についてでもなければ他者についてでもなく、他者との関係性について考えるというのがいい、また同様に、平和についてでもなければ戦争についてでもなく、戦争と平和との関係性について考えるのが中庸でいいように思います。
中庸とは関係性であると致しますと、関係性とは全て力の関係性であり、そしてまた因果でもあるとすれば、全てが繋がっていることがわかります。バタフライ・エフェクト、風が吹けば桶屋が的な。

考えれば繋がる

noteでフォローさせて頂いている方が今イスラエルにいらっしゃるようでして、直接存じ上げないが、記事を拝読しておりますと、たくさん気づきがあり、他人事とは思えません。日本は中東から石油を輸入していますが何とその比率は95%です。しかしメディアは触れませんね。高校生に資産運用の手ほどきをするくらいなら、リスク分散という考え方を広く遍く知らしめるべきでしょうに、政府を含めメディアのこの体たらく、というか、ここにも乖離があるように思います。遠い異国の出来事を他人事として傍観している、それでいて無辜の虐殺に感情的に寄り添うメディアには違和感しかありませんが、やはり乖離なのです。
乖離とは関係性の欠如であり、関係性の欠如とはゼロであり、死であります。生と死との間が現在であるように、生きた考えというものは中庸という関係性においてしか生まれない、考えるとは繋がることであると結び、終わりと致します。お読み頂きありがとうございました。

自分の役柄を立派に演ずるためには、その劇の全体を知らなければなりません。個人という概念の中で、全体という概念はけっして見失われてはならないのです。

『茶の本』岡倉天心