見出し画像

東京日和


うんざりするほど暑い日がつづきましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。東京は今日は雨。ちと涼しい。
以下、ふと思いついたよしな事ではありますが、お付き合い頂ければ幸いです。風潮について。



どんな悪いことをやったかは、たいしたことじゃない。……遅かれ早かれ何をしたかなんて忘れちまって、罰だけ喰らう羽目になるのさ。

『善人はなかなかいない』
フラナリー・オコナー



病院の、廊下に並べられたベンチに腰掛けて呼ばれるのを待つあいだ、話し声が耳に入る。訪問介護と書かれた扉を全開のまま、二三の職員が患者だかその家族だかの噂話で盛りあがっている。悪口である。態度が横柄で暴言を吐くらしい。苗字と性別、職業、だいたいの年齢、最寄り駅まで、待合スペースに垂れ流している。


他人のプライバシーを一方的に握っているということは、情報強者という優越感を与えてくれる。悪口も同様で、悪を叩いている自分たちは善人であるという偽りの優越感を与えてくれる。善人はなかなかいない。偽りであるとしても、善人であるという優越感は快である。水は低きに流れ、人は易きに流れる。悪を叩きたがるのは、人性かも知れない。


悪口は、息抜きになる。医療従事者が患者に横柄な態度を取られたら屈辱をおぼえるだろうことは想像に難くない。また不本意であっても話題に付き合わざるをえないことだってある。人情としてならわからぬでもない。問題は公私の区別である。場を弁えられぬ愚かさといってもいい。


個人情報の漏洩、守秘義務違反、信用失墜行為などという言葉は浮かばないらしい。地図情報サービスの口コミにこんなことを書かれたら、録音されSNSで発信されたら、とは考えない。扉が閉まっているかどうかなど気にかけもしない。まるで周りが見えていない。
周りとは、自分たちが属している病院という狭い世間ではない。
世界である。
顔の見えない、他者のまなざしである。






誰もがスマートフォンを持つ現代。五分もあれば情報は世界中に広まり、当事者の心情も文脈も疎外して赤の他人がその善悪を判断する。好むと好まざるにかかわらず、それが現実であるという想像力の欠如とは、すなわち罪悪感の欠如であるといえば違和感をおぼえる方もあるかも知れぬが、やれパワハラだモラハラだセクハラだのとポリコレ、キャンセルカルチャー吹きすさぶ昨今を鑑みるに、炎上してからではもう遅い。兎角に悪を叩きたがる世にあって、罪の意識はなかったといってもデジタルタトゥーという罰の痕跡は消えはしない。


罪の意識がなければ、罰だけ受けることになる。
オコナーの小説にそんな一文がある。しかし何が罪であるかを決定するのは、今では顔の見えない他者である。
人が生み出したシステムに人が支配され、本来の己を奪われることを疎外という。一人では生きられぬ以上、現実として疎外を受け入れるより他はない。ただ違和感をおぼえるのは、善悪の判断を他者に委ねるということである。
価値判断を、自ら手放すということである。
考えなくなることである。
自覚的であるか否かはさておき、そうした風潮である。
人は易きに流れる。
先日の都知事選ではネットメディアを駆使し、やや「風」の吹いた候補者がありましたね。風潮に根ざした戦略だったのでしょう。
一部は熱狂したらしい。



人間という者は議論の余地なく崇拝に値する者を求めている、万人ことごとく打ちそろって、一時にその前にひざまずき拝し得るような、絶対的に崇むるに足る対象を求めているのだ。

『カラマーゾフの兄弟』
フョードル・ドストエフスキー




短く、わかりやすいフレーズと悪を懲らしめるヒーローという虚像に、人はうっかりと熱狂するものである。ヒーローに同化することで自分は善人であるという偽りの優越感に浸りたいがために。
不穏な空気である。が、言わぬが花という言葉もあります、この辺で。
わけの解らない戯言にお付き合いくださり、ありがとうございました。






梅雨じめり
東京の街に釘が降る