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エッセイ:模型時代

「キリンさんが好きです、でもゾウさんの方がもっと好きです!」

上記は、ある少女による心情の吐露でありますが、彼女は誤っています。
好きになるのに理由はありません、つまり基準はない、故に比較はできないのですが、彼女の錯誤は他人事ではありません。私たちは「モデル」を基準に他者を見ている。
例えば、あなたが電話の向こうから少女に好きなものを尋ねたとします。
少女答えていわく、
キリンさんが好きです! ←わかる
ゾウさんが好きです! ←わかる
ドストエフスキーが好きです! ←まあわかる
般若心経が好きです! ←問題はここである

子供だと思って高を括ってはいなかったでしょうか。あなたが躓いた理由は、わかりやすい「子供」というモデルと彼女とを比較していたからではないでしょうか。モデルを「基準」としたから、躓いたのではないでしょうか。

近代(モダン)とはわかりやすいモデルが流行(モード)する時代であるという。近代と地続きである現代に生きる私たちは、人として生きていくために時代の求める(流行りの)わかりやすい人というモデルを演じる必要がある。わかりやすいモデルばかり求める世にあって、「この私」を疎外し、放擲し、蔑ろにしていれば、いずれ抑圧された「この私」が回帰する、だろうか。

電撃ネットワークというパフォーマンス集団で活躍された南部虎弾氏が亡くなられましたが、コピペさながら似たようなコンテンツばかりが横並びの、模型時代とでも呼ぶべきこんにちを思うに、ああいう方はもう出てこないのでしょうね。
心よりお悔やみ申しあげます。