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けっきょくお前かい



You're too old to lose it,
too young to choose it

『Rock'n Roll Suicide』
David Bowie




失うには歳をとりすぎ、選ぶには若すぎる――
デヴィッド・ボウイの曲の一節ですが、十代のころは誰だって夭折や自殺を美化し、27歳で死んだロックスターに憧れるものである(知らんけど)。
ブライアン・ジョーンズ、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、そしてカート・コバーン。

1994年4月、アメリカシアトルの自宅にて、かれが自らショットガンで頭を撃ち抜いてからほどなくして、西日本の片田舎でのこと。放課後、同級生の女の子があたしも死にたいわぁと涙ながらに語っていたのを憶えているが、その気持がわからないでもなかったのは、若さゆえの感傷で、大人に生まれ変わりつつあるなかで、死につつある子どもの自分をかれに重ね合わせたのでしょう。

三十年たち、大人になった彼女はもう他人の身に起こった出来事をあの頃と同じく我が事のようには感じますまい。歳を取るとは、大人になるとは、誰もが自分とまったく同じ人間であると感じられる直接性とでも呼ぶべき直感を少しずつ失い、他者を受け入れていくことだから。

直感という絶対無謬の世界から、他者と己との関係性という相対的世界へ。想像から象徴へ、あるいは鏡像から他者のまなざしの世界へ。

されど「大人」になったからといって、「子ども」は完全には消え失せてはおりません。

なぜならそれは死んではいないから、、、、、、、、、、、、。それが死に、もはや不在であることを証す手立ては絶対にない。
子どもは生きている、、、、、、、、、

ゆえにいくつになってもひとは死に魅入られるのでありましょう。子どもが死に魅入られるがごとく、享楽にふけるがごとく、理由もなく、無謬のあの直接性という直感に導かれ。




何年か前、大怪我をして長期入院を余儀なくされたことがある。仕事を失くし、信用も失い、収入はゼロに、ひとは離れていき、貯蓄は減るばかり。悪いことは重なるもので色々あって住み処もなくなり、妻は一人暮らしのためのアパートを借りた。

3ヶ月たっても回復の目途を明言する医師はおらず、先は見えぬ。方途のつかぬときは諦めること。何も考えまいと決め、仏教の入門書を繰り返し読んでみたり、手当たり次第に映画を観る。何も考えないおかげで、入院生活は淡々とすぎていった。ただ見舞いにくる物好きがいて、彼らの前ではしおらしくうなだれてみせた。
死のうと思わない?
同じひとに二度訊かれた。
そんなことは考えもしなかったが、考えなどというものは、己などというものは、少しも当てにならぬ。

おおきな病院だった。中庭があり、花壇があって気が向けばそこで日光浴がてら草だの空だの猫だのを眺めていたものだが、ある日ベンチの上に大型のカッターナイフが置き去りにされてあった。
すぐにその意味を悟った。
工作のための道具ではない。荷解きのための刃物でもない。この私を傷つける、そのための凶器であり、この私の死だけのものであると。
そう直感した。
まわりには誰もいない。
手にとると胸が高鳴った。
妻のことは浮かばなかった。
しばらくそこにいた。
後日談はない。




この私の死とは何か。
経験することのできる死、知ることのできる死とは畢竟他者の死であり、本当の意味での死、すなわちこの私の死とはどうあがいても知り得ぬものであり、生きているかぎりは辿り着けぬ永遠の彼岸である。
永遠とは不可能の異名であり、直接性という直感は他者と己との絶対的差異を超克するように、この不可能をたやすく乗り越えてしまう。自死とはこのことでありましょう。
本人にもわからぬ衝動。
その意味はけっして知り得ぬ。
この私の死に意味はない。




死に魅入られたひとがそれを口にするだけ、、で、そのひとを揶揄して「死ぬ死ぬ詐欺」などというようですが、死に魅入られているひとはいつか本当に死ぬでしょう。まだ死んではおらぬというだけで、それがいつかなんて誰にもわかりますまい。本人もわからぬというだけ、、のことであり、直接性というものはたやすく不可能を乗り越える。この私の死が無意味だからでありましょう。
意味のある死とは、他者の死である。
他者の死にしか意味はない。
遺された者にとっての意味しかない。

もう随分むかし、一切は苦しみであると説いたひとがありましたが、
今、あなたもさぞや苦しいでしょう。
でもお願いです。
私が苦しみます。
だからどうか死なないでください。
あなたが生きている今日は、私にとってどんなに意味があることか。




Gimme your hands
'cause you're wonderful 



お読みくださりありがとうございました。