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吉田先生に助けられた話

その日の夜。夕食の洗い物を済ませたわたしは、ダイニングでひとり椅子に腰掛けていた。焼酎の炭酸割りを飲みながら、鈴木さんの電話の内容を反芻する。大谷先生があの時、何を思っていたのか。聞き取りからは全く伝わってこない。しかし、鈴木さんの言い草を頭の中でまとめると、こんな結論になってしまうのだ。

「おとなしそうなわたしがやり返してくると大谷先生は思っていなかった。正面からクレームで殴り返され、保身のために大谷先生はとっさにそれっぽい言い訳を返した」

わたしの処遇を迷うあまり、大谷先生は冷静な判断ができなくなっていた。それは本音だと思う。しかし先生はプロだ。人生で初めてガン治療を経験するわたしをリードする立場にある。素人みたいにテンパって、転院を強要するような発言をしてしまったのは先生の落ち度であろう。

わたしは大谷先生を責めてはいない。先生だって人間だ。たまには間違ったこともする。院長先生に宛てた手紙でわたしが伝えたかったのは、以下の2点だけだった。

・私は転院するのをやめます、先生も私を転院させるような発言を撤回してください
・前回の診察の時、先生の態度は酷かった。私は傷つきました。反省して下さい。

大谷先生を叱責するニュアンスを含めないよう、細心の注意をはらってわたしは手紙を書いた。何度も何度も読み返し、この内容ならば大丈夫と判断して相談窓口に提出したのだ。それなのに大谷先生は、わたしに背を向けて逃げ出した。

大谷先生に子供がいるなら、お金が最もかかる時期だと思う。子供も医学部なんてことになれば、今の仕事にしがみつかざるをえないだろう。
「無用な争いはごめんだ」
先生はそんな気持ちだったのかもしれない。しかし、わたしには知ったこっちゃないのだ。

(この卑怯者…)

好きな人のみっともない姿をみるのが、こんなに悲しいことだなんて。“怒り”は細分化すると“哀しみ”なのだ。わたしは今ものすごく腹を立てていた。しかし涙がボロボロとこぼれる。酔って感情が高まっているせいもあるが。

就寝していた夫がトイレに起きてきた。テレビも点けずダイニングで独り涙を流すわたしに、夫は声をかけた。
「大丈夫か?俺が明日、別府病院に電話して文句言うちゃる。ウチの嫁さんに何してくれてるんか?って」
夫の優しさが身にしみた。でも苦情の電話はやめて、とわたしは言った。鈴木さんからの電話は大谷先生を見限るには充分すぎる内容だった。それでもわたしは、まだ先生のことを嫌いになれずにいたのだ。

わたしは心の中で自問自答していた。これは恋愛感情なのだろうか?もっと違う物のような気がする。わたしは、自分が普通の精神状態ではないことを改めて自覚した。

翌朝、わたしは吉田内科医院に向かった。去年の年末、薬をもらいに行った時、吉田先生は「帰脾湯を飲んでも良くならなかったら、抗うつ薬を飲んだほうがいい」とわたしに話していたのだ。

ウツの治療を本格的に開始してほしいと、わたしは吉田先生に申し出た。
「何かあったの?」
吉田先生が尋ねた。話を聞かない普段の先生からは信じられない言葉である。しかしわたしは、今回の一件を吉田先生にどう説明すればよいか分からなかった。
「別府病院の先生とちょっと揉めて…」
涙がこぼれた。吉田先生はそれ以上聞かず、“パロキセチン”という抗うつ薬を処方してくれた。

「パロキセチンは気分を高揚させるお薬です」

吉田内科の薬剤師さんが、薬の説明をしてくれた。薬剤師さんは女性で、先生とおなじ吉田という名字である。たぶん先生の奥さんだろう。
(なんで奥さんはあんな変な人と結婚したんだろう?)
前から不思議に思っていた。しかしこの日、わたしは気が付いた。奥さんもかなりの変わり者なのだ。

「私もパロキセチンを飲んでるんですよ。知人の結婚式の日に8錠ぐらいまとめて飲んで、式場で興奮して大騒ぎしてつまみ出されました(笑)」

これから薬を飲み始める人間に何てことを言うんや!怖すぎるやろ。
「えぇ…」
わたしはドン引きしていた。ウツといっても人によってさまざまである。イライラしたり、怒りっぽくなったりする人もいるが、わたしは「ひたすら気分が落ち込み、やる気がなくなる」タイプだ。パロキセチンはわたしのようなウツの症状に処方されるお薬である。気分に波がある人は、操転したり衝動的に自殺を図ったりするおそれがあるので注意が必要だ。
「菊池さんは心配いりませんよ」
薬剤師さんはそう言ってニコニコしている。
(心配やわ!)
わたしは涙を拭きながら笑った。

「辛かったらいつでもおいで。何とかしてあげるけん」

帰り際、吉田先生はそう言った。お医者さんからそんなことを言われたのは初めてだった。覚悟と自信がいる言葉だと思う。わたしは先生の男気に痺れた。そしてまた泣いてしまった。

鈴木さんから聞いた大谷先生の様子に、わたしは傷ついていた。わたしは大谷先生を心から信じていたし、好きだった。でも先生は「お仕事」としか思っていなかった。
「お医者さんってみんなそうなのかな…」
虚無感に打ちひしがれていたわたしを、吉田先生が救ってくれた。

夫も吉田先生にかかっている。寝ている時によく足が釣るので「芍薬甘草湯」という漢方薬を処方してもらっている。以前、夫は吉田先生のことをわたしにこう話していた。
「小百合がいい先生やと言うから診てもらっているけど、自分ひとりだったら二回目は絶対なかった」
吉田先生の第一印象は強烈だ。相当な数の患者さんが、初診で離脱するだろう。我ながら、人を見る目があると思う。

「はい!よろしくお願いします」
わたしは吉田先生にそう言って頭を下げた。そして涙を拭きながら吉田内科医院を後にした。

温泉好きが高じて20年以上暮らした東京から別府に移住しました。九州の温泉をもっと発掘したいと思っています。応援よろしくお願いします。