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おじいちゃんの墓参り

大阪府太子町は、わたしの実家から車で小一時間の距離にある。二上山の山頂を境に、奈良県香芝市と隣接している。太子町にある叡福寺というお寺が、わが家の菩提寺だ。

墓参りに行く前に、わたしはスーパーで仏花を買った。
仏花は地方により備え方が異なる。関西では「関西仏花」と呼ばれるスタイルが主流だ。下草(ヒサカキ)を背当てにし、青、白、黄、赤の花が縦にならぶ。関東でサカキと呼ばれている植物が、関西のヒサカキ(非榊)である。

「“墓前用”と書いてある花を買わんとあかんで」

母がそう教えてくれた。関西では仏壇用と墓前用で仏花が違う。関西仏花は他の地方にくらべ小さい。35センチぐらいだ。仏壇の花瓶が関西は小さいからである。東北地方の仏花は60センチぐらいあるらしい。

墓前用の関西仏花は、仏壇用を大きくしたものである。”墓前用”と書かれていることを確認し、わたしは仏花をレジに持って行った。

太子町は読んで字のごとく、聖徳太子に縁の深い地域だ。叡福寺の裏手に聖徳太子の墓所がある。叡福寺は、推古天皇により聖徳太子の墓を守る目的で建立された。四天王寺・法隆寺とならび聖徳太子信仰の中核となった寺院である。織田信長の兵火で焼失したが、豊臣秀頼により再興された。

叡福寺の周辺には「竹ノ内街道」が通っている。竹ノ内街道は、日本最古の官道と言われる。遣隋使や遣唐使も、竹ノ内街道を通り奈良へと向かった。

わたしは叡福寺周辺の街並みが好きだ。趣ある白壁の街並みが続く。祖父と墓参りによく来ていたことを思い出す。祖父はわたしが小さいころ、現役の会社員だった。語学堪能だった祖父は、海外を飛び回る仕事に就いていた。日本に戻るのは年に数日である。祖父の日本滞在中に、家族で墓参りに行くのが恒例だった。祖父に会える楽しみが、墓参りの思い出と重なっている。

叡福寺の山門の下にわたしは車を停めた。石段をのぼり境内に入る。山門をくぐり抜けると、正面に金堂と聖霊殿(太子堂)、左手に宝塔が見える。

墓地があるエリアに向かった。手桶に水を汲み、墓の場所をさがす。墓掃除を1年以上していないと母から聞いていたが、墓は雑草もほとんど生えておらずきれいだった。

枯れた花を取りのぞき、ゴミ袋に入れる。墓石から花立を取り外し、水で洗った。たわしと雑巾で墓石をきれいにし、さっき買った仏花を備えると、線香の束に火をつける。わたしは墓前で手を合わせた。

(おじいちゃん、なんかもう疲れました。早く終わりになってほしいです…)

相変わらず大谷先生のことである。先生の顔を見るのが楽しみだったあの頃に戻りたい。でももう無理な気がしていた。わたしにとって大谷先生は“いい先生”ではなくなっていた。守るべき存在の患者を追い込んだ挙句、クレーム対応を鈴木さんに丸投げし、自分は関係ないような顔をしている。山本先生が助けてくれなければ、わたしは今頃どうなっていただろう。

今後の通院のことを考えても、山本先生に乗り換えたほうがいい。でも…

急に、線香が火力を増した。赤い火がボワっと燃え上がったと思うと、すぐにもとに戻った。のりおちゃんだろうか。それとも…
「じいちゃん、また来るわ」
そう言って墓前を後にした。

時計をみると、まだ10時過ぎである。天気もいいので、ドライブがてらわたしはこのまま出かけることにした。
目的地は和歌山県の「那智の滝」にした。叡福寺からは直線距離で60キロぐらいあるだろう。紀伊山地が行く手を阻んでいる。
大分で就職したら、近畿地方を気ままにドライブなんてもうできなくなる。「夕飯は要らない」と母にLINEを送った。


太子ICから南阪奈道に乗り、美原方面へ向かう。美原ジャンクションから阪和道に乗り継ぎ、和歌山方面へと南下した。
桜前線が近畿地方に到来していた。五分咲きのソメイヨシノが、阪和道沿いに連なる。わたしはつぶやいた。
「お母さんも連れてきたったらよかったなぁ」

温泉好きが高じて20年以上暮らした東京から別府に移住しました。九州の温泉をもっと発掘したいと思っています。応援よろしくお願いします。