黄金を運ぶ者たち1 裏稼業
「香港から『金』を運ぶバイトがあるんですよ」
電話の主は挨拶もそこそこに、いきなりそう切り出した。
二〇一四年の師走もうじき年も暮れようとしている。表の風は冷たかったが、僕は昼間から居間の炬燵に入って、俯き加減でパソコンと向き合っていた。僕が自宅にいた夜のことである。 電話の主は、利根川信。数年前に仕事の取引先として知り合った、僕より少し年上の四十代半ばの男性だ。
彼は、やや小柄ながらもがっしりとした体躯の持ち主で、言動は体育会系。義理堅そうで信頼の置ける人物といえるのだが、現在の肩書は「フリーの広告プランナー」。いったい何をどうやって毎月の収入を稼いでいるのか、イマイチわからないところもあり、時折持ち込んでくる商売のネタが微妙な臭気を帯びている。
この日の内容もそんな「怪しい話」に間違いないだろうが、いつも以上に突飛な内容だったため好奇心が疼いてしまい、職務経歴書を作るのを止めキーボードから手を離した。そして右肩と頬で携帯を挟んで聞く姿勢を改め、電話をきちんと左手で握り彼の話に耳を傾けた。
「『金』ってゴールドってことですか?」
「そうですよ。一キロのバーを一人四本ぐらい運ぶんです」
曖昧さが薄く、やたらと具体的な話しぶりには真実味があるように感じるが、ゴールドには国際価格があり、全世界共通の値段で売買されていることくらい知っていて、香港で買えば安いということはない。
「本当のところはクスリでも運ばせる話なんじゃないですか?」
僕は揶揄の翳りが出ないように気をつけて利根川に訊いた。
「ありえませんね」彼はそう断言した後に一拍置いて続けた「香港では金が安く買えるんです。それを日本で高く売る商売があるんですよ」
(ありえないのは利根川さんの方ですよ)やんわりとそう口にしようとした刹那、彼が言葉を滑り込ませてきた。
「失礼。正確に言うと違いますね。金の国際価格は全世界共通ですが、香港には消費税がない。だから香港で税抜き価格で購入して…」
そこで今回は僕が言葉を繋ぐ「日本で税込価格で売却する」
「その通り」電話の向こうで利根川の得意げな表情が眼に浮かんだ。そして彼は声のトーンを少し落としてこう続けた。
「それに、私自身が既に一回やってみたんですよ…つい先日、名古屋のセントレアから香港に渡航して、復路に一キロの金塊を四本。身体に付けて運んで帰ってきたんです。でも税関の検査では触りもせずに、さっと姿格好を見ておしまいでした。ちゃんとこの目で見て、触って確認済みです。他の物を運ぶための隠れ蓑なんかじゃない」
「え!もうやったんですか!自分で?」
僕は驚きを隠せなかった。どうりで話の内容が生々しいはずだ。
「そうですよ。でなけりゃ真田さんを誘ったりしませんよ」
僕はてっきり「一緒にやりませんか?」という連れを求めるお誘いと思っていたので、展開の早さに言葉を失った。利根川は、秘密を話した興奮のせいか、あるいは僕に怪しむ隙を与えないためなのか、まくしたてるように話を続ける。
「仮に税関で、金を申告せずに日本国内に持ち込もうとしたことが見咎められ、摘発されたとしても、消費税の倍額相当分の罰金を支払うだけなんです。もっとも、もちろんこっぴどく怒られますし、一度でも摘発された人間は二度と金を運べなくなりますがね。運びこもうとした金は税関預りとなり、罰金を支払わないと戻ってこないんですが、クライアントが罰金を肩代わりして払ってくれますからご安心を。つまり罰金さえ払えば、預かられてしまった金を取り戻せるんです。面倒な税関とのお付き合いも、そこで終了です」
「逮捕されるようなことにはならない、というのですね」
「そうです。ただ、反社会的組織の人間が運んだことが判明すると逮捕、ということだそうでして、ネット上にも一部、事件としてこの手のニュースが出ています。その辺りは『金』『香港』といったキーワードで検索して、自分で見ておいてください。とりあえず、年が明けてからでも良いので、一度会って話しませんか?」
と、話をテキパキとまとめてきた。いつもの利根川の「怪しい話」は、こうコンパクトに要領良くは終わらない。基本話が長い人で、一度電話で話し始めると、脱線しながら小一時間はダベってしまうのがパターンだった。
それは、この先の出来事に付随するやり取りにおいても変わることはなかったのだが、この時ばかりは、結論まで一直線に突き進んできた。
「一泊二日。アゴアシ付でギャラ十万。悪くないでしょ」
広告業界の住人らしい表現で、彼は報酬とは別で交通費や宿泊費は雇い主が負担することを最後に伝え、完璧なプレゼンテーションを締め括った。
「そうですね。ぜひお茶でもしましょう」
僕はそう言って、通り一遍の年末の挨拶を交わし話を終える。 今聞いた内容は刺激的なものではあったが、それだけで生活できるはずもない。僕は悩ましく溜息をついた後、再びパソコンに向かい、キーを叩き始めた。
この頃の僕は、勤めていたイベント運営会社を辞めたばかりだ。
中小企業にありがちなワンマン経営。社長と、専務とが一緒になって、朝礼では社員のささいな失敗をネチネチとあげつらい、自分ならこうしたのに、という持論を滔々と展開する、どうしようもない社風で、そのことは業界にも知れ渡っていて、社名を出すと同業者から哀れんだ視線を送られるような具合だった。
それでも、イベントを作るという企画運営の仕事が好きなことと、僕自身は、入札で公共のイベントを取ってくる業務での実績を上げていたために、パワハラのターゲットにされることは少なく、なんとか仕事を続けていたのだ。
しかし、案の定社員の入れ替わりが激しく、経験値の高い者ほど負担が増え、終電帰りは日常茶飯事。妙な役職を与えられるせいで、残業代も出ない。心も身体も疲労困憊だ。
そんな折に、不覚にもイベント当日に寝坊してしまった。自分の遅刻で開いた穴を、会社が応急処置で埋めるフォローもなく、イベントそのもののスタート時刻が遅れるという、最悪の事態に陥った。クライアントが役所だったため、責任者の官僚に強いられて、集まった参加者に対し舞台で土下座させられた。
今時土下座はやり過ぎだった。逆にそれがイベントを盛り下げる形になり、参加者からクライアントにクレームが出てしまった。するとその官僚は「運営責任者が自発的にやったことだ」と僕に責任を擦り付けてきた。こうなると真実は藪の中だ。
結局は、クライアントが会社に報告した内容が「事実」となり、僕は遅刻した上に余計な土下座でクレームを招いた愚か者扱いだった。クライアントは会社に、この不祥事の責任を取るよう要求し、むろん会社は僕を守らない、歪められた事実を受け入れさせられ、クライアントに対してまた土下座をする始末となった。
数日後の朝礼ではこの件でターゲットとなり、突き上げを食らった。全ては自分の寝坊がまいた種とわかっていたが、蓄積した疲弊もあったためか、終に僕も心が折れた。
朝礼の後、自分のデスクを整理して、会社を出るとそのまま二度と戻らなかった、いや、戻れなかった。
仕事も自信も失い、俯いて家に帰ると、妻は「最近の顔色見ていて、そろそろ会社を辞めると思っていたわ」とあっけらかんと笑った。知り合いのクラブのママから「十二月のかき入れ時なのに女の子が足りない」と相談されていたので、これを機に私がしばらく水商売に復帰するから、当面の生活に支障はない、と言う。
「次はもうちょっと良い職場を見つけてね」
とだけ言うと、会社を辞めた理由を聞くこともないままだった。僕は妻の寛容さに甘んじて頷くしかなかったが
(このままではいけない、やはり僕がシャキッとしなければ)
と心に強く誓ったのだった。
黙って会社を去った翌日に「退職届」を送付した。書きたいことはいろいろあったが、社会人としてマナーを弁え、「一身上の都合」とだけ記すに留めた。
僕が管理していたプロジェクトは多く、スマホにはこの二日間で、会社から嵐のように着信がある。僕は一切応えなかった。むしろいい気味だ、困ればいい、とも思っていた。引き継ぎもせずいきなり辞めた上に連絡も断った僕は、社会人失格だ。
とはいえ、フォローを何もしなかったわけではない。
もともと仕事量に対して人員が全く足りてない会社だったから、常に息をつく暇もないほどに忙しく、誰かと雑談して打ち解けるような余裕はなかった。
そんな中、一回りほど年下ではあるが、僕には戦友と呼べる同僚がいた。その男の名は仙道智史という。彼とは担当クライアントが重なっていなかったので、入社して一年くらいは話すこともないままだった。その後、経験豊富な人員が減り、やむにやまれず、僕たちはクライアントの垣根を越えて仕事を助け合う関係になった。
そのうち、仙道の抱えていた大きな案件が終了し、そこで彼は辞職するつもりだった。会社の慰留もすっぱり断っていて、彼自身は辞める気満々だったが、僕としてはもはや彼の助けなしには案件が遂行できないほど人員に困窮しており、僕が何度も頭を下げて、彼に会社に残ってもらった経緯がある。
にもかかわらず、僕が先に、しかも突然逃げ出したわけだ。会社からいなくなった後、仙道からかかってきた電話に出るのはバツが悪かった。しかし助けてもらった恩義があるのだ、無視できるはずもない。相当怒っているだろうな、と覚悟しながら、恐る恐る電話に出た。
「真田さん、会社辞めたんですよね。上は何も言わないんで、みんな事態を把握してないんですよ」
「ごめん。僕が仙道くんに会社に残ってくれとお願いしたのに、申し訳ない。事後報告にはなるけど、今日退職届を郵送したよ」
僕は電話片手に深々と頭を下げたが、仙道は意外な反応だった。
「いやいや、逆に助かりました。真田さんは、なんだかんだ仕事が好きだし、案件を取ってきちゃうでしょ。結局業務が途切れないから、いつになったら辞められるか不安だったんですよ。新案件増えなければ、今のを終わらせれば辞められます。見通しが立って良かったです」
その後も、会社からの連絡には一切応じなかったが、仙道と打ち合わせしながら、自宅で必要な作業を行い、プロジェクトの引継ぎを進めていった。会社は僕という人間には興味がなく、残った仕事が回ればそれで良いだけなので、僕が不在でも業務が進んでいることに気付いたのか、数日経つと会社からの着信はなくなった。
僕らは電話だけでなく、仙道の仕事終わりに喫茶店で会って話すこともあった。残務整理の打ち合わせではあったが、会社の様子や、お互いの今後も話題に登った。
「今日も朝礼で『誰とは言わないが、事後報告で退職届を送りつけるとは、社会人としてありえん!』って息巻いていましたよ。十人程度の会社で『誰とは言わない』も変な話ですよね。とにかく最近の社長の流行語が『事後報告』のようで、何につけてもそのワードですよ」
そう言って仙道は笑った。
「これまでバックレが出るたびに、退職届けがなくて困る、と総務の人がボヤいてたから書いてあげたんだよ。社長のために出したわけじゃないから、ホントなら事後報告すらないよ」
僕は吐き捨てるように言った。
「自分は、真田さん案件の区切りが二月末なので、そこで退職と、もう伝えましたよ」
彼は「僕は事後報告ではない」とばかりに誇らしげな顔だ。
「じゃあ三月に向けて就職活動か。こっちはとりあえず、バイトでもしようと思ってね。学生時代のバイト経験を活かし、飲食が良いだろうと考えて、手始めに吉野家に応募の電話したんだよ。年齢聞かれて四十って言ったら『面談のお日にちなど改めて連絡します』と言われたきり、一週間以上折り返しの電話はないままさ。キャリアもないし、こうなったら荷物の仕分けでもやるしかないかな。歳はとりたくないもんだ。仙道くんはまだ三十代前半だから、次の就職先が分水嶺だね」
僕がそう言うと、仙道は大きなため息をついた。
「真田さん、そんなつまらないこと言わないでくださいよ。真田さんが公共入札の仕事を開拓して、ノウハウを築いたんだし、自分らで入札を取りに行けばいいじゃないですか。自分を慰留するとき、『仙道くんもしばらくここで我慢して、ノウハウを身に着けて一緒に独立しよう』と言っていたじゃないですか」
「それは話のアヤというか、あの時はそうでも言わないと止められなかったし…。自分でやる、ねえ。役所ってのは支払いは堅いけど、その入金までに、会場費やら、もろもろ支払いを立て替えないといけないからな。現場の人件費は友達で固めて、入金後まで待ってもらうにしても、その他の費用がね」
「何をするにも必要なのは軍資金ってことですね。僕も先日父が急に入院したもので、貯金どころか借金をする羽目になりました。何かいいバイトないですかね。すぐにできて、単発で、金になるような…」
僕は思わず「あっ!」と声をあげてしまった。利根川の「怪しい話」が頭をよぎったのだ。そこで僕は声のトーンを下げ、キョロキョロとあたりを見回し、テーブルに半身乗り出して、仙道を相手に内緒話を繰り広げた。
「なるほど。香港から金を運ぶというわけですね。一回十万円、ホントですか?」
「紹介者は、利根川さんという体育会系の人で、嘘はつかない人だよ。自分で既に試したそうだし」
「だったら凄いことですよ。香港往復なら最短一泊二日ですよね。会社に勤めながらでもやれますよ」
仙道は僕の予想以上に前のめりである。
「真田さんってやっぱり凄い人ですね、こんな情報が入るなんて、タダ者じゃないです」
仙道は感情の起伏が薄く、淡々としていて、ヨイショなんてするタイプではない。ここまで興奮するからには、相当に価値がある話と感じたのだろう。
「年明けに利根川さんとこの話をするから、一緒に来るかい?その様子なら、まあ、来るよね」
彼は大きく頷いた。
「ただし、利根川さんは筋を重んじる人で、勝手に秘密の話をバラしたとなると、気分を害しかねない。とりあえず今夜利根川さんに電話して、信頼できる友達に話して誘っても良いか、と了承を得てみるから、それ次第ってことでいいかな?」
ここで仙道は僕をじっと見つめたと思うと、ニヤリと笑って言った。
「それは、事後報告ってことですね」
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