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ランバ・ラルに憧れているんだけど、シャアみたいな生き方になっている。認めたくないものだな。

note に書いている記事を読んだ友人からメッセッージがきた。
「真田さん。あれだけ嫌がっていた大分を満喫してますね!」

カミさんや猫たちもと離れて、それなりに安定した仕事も捨てて、よく知らない田舎に住むのだから、それで義理は果たせるとはいえ、気はすすまなかった。だが、

毎週山楽しんで、

近所の温泉でなごみ、

美味しいものに舌鼓をうつ。

確かに満喫してます。散々愚痴を聞かされた友人たちには「あ~。いかにも真田さんらしい」と思われているようである。

「チャンスは最大限に活かす。それが私の主義だ」
それだけの事なんだけどね。もうちょい慎重に言うなら「人生にチャンスなんかない」
実際は、ある変化やある出来事があって、それを「チャンスにできた」かどうか、もしくは、後に「あれはチャンスだった」と思えるかどうか。だけでしかない。

そうであればこそ「ピンチはチャンス」という言葉に説得力を感じるわけで、それが成り立てば「チャンスはピンチ」であり、結局のところ「チャンスもピンチもない」ちゅうことになってしまうんだな。

ところで昨日、新幹線殺傷事件で無期懲役判決に万歳三唱したヤローのニュースがあったけど、ニュースキャスターは「辛い服役生活を通じて、後悔や反省をして欲しい」みたいなコメントをしていて、犯人のみならずニュースキャスターも語彙と想像力が貧困なんだなぁ。とつくづく思った。

日本の刑務所は、衣食住に医療まで整っており、安全でもある。シャバではそれこそ新幹線で刺されるかもしれないが、刑務所ではそういう危険もない。インターネットもないから炎上する心配もないよ。

それを「大変だ」と思うか、思わないかは、当事者の感受性の問題で、犯人は拘置所という、それなりに刑務所をかいまみえる環境にいながら万歳三唱してるのだから、刑務所に行ったところでおしてしるべし。偉い人にはそれがわからんのですよ。

偉い人にとって刑務所入ることは大変だろうが、それが万人に当てはまるとは限らない。偉い人は犯人の感受性を理解できないし、犯人は被害者や残された家族の感受性を理解できない。まあ、極端に言えば「似た者同士」かも知れないね。

そういえば、先日note で企画があった、#こんな社会だったらいな の源流ともいえる笹川良一は拘置所に入って人脈を作った。

一方で、この獄中に於いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた政治家らとも知り合う。このことが日本のエスタブリッシュメント人脈との交流に繋がった。笹川は、巣鴨プリズンのことを「人生最高の大学」と評して、「ここは娑婆の二十倍、三十倍勉強になる」と語った。なお、戦前にも長期の獄中体験がある笹川は、その経験からひ弱なエリートであるA級戦犯たちを励まし、またその一方で獄内でA級戦犯の特権を認めない行動をとったことから、BC級戦犯たちの間でも絶大な人望があったという。
出展元:Wikipedia「笹川良一」

「チャンスは最大限に活かす。それが良一の主義だ」

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