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詩誌「三」70号掲載【三十七番星の赤い塔】飯塚祐司

職員室の鍵をかけて時計を見ると、ちょうど日付が変わろうとするところだった。既に他の先生たちは帰宅しており、一人で溜まった書類の整理をしていたのだが、予想以上に時間が経っていたらしい。赴任したばかりで、まだ勝手の違いに慣れていなかった。

小高い丘の上に建てられた校舎からは夜の街並みが一望できる。あいにくの曇り空には星一つなかったが、遠くにはこの三十七番星の象徴とでもいうべき赤い塔が、乾いた光を放っていた。校門を出ると正面には緩やかな下り坂が続いているが、歩き出して直ぐ右手に折れた。丘の南側の斜面はこんもりとした雑木林に覆われており、その中を麓まで一直線に伸びる階段があった。

小さな街灯が照らす急勾配の階段を、足元に気をつけながら下っていく。時々ぬるい風が吹き木々がざわざわと揺れた。青葉の匂いがどことなく海を思い起こさせ、波打ち際を歩いているような気持になった。階段の途中一か所開けた場所があり、そこには公園があった。もっとも、傾いた東屋とベンチが並ぶだけの粗末な物だったが。そのベンチの影で猫の鳴き声がした。驚いて目を凝らすと、満月のように大きくて丸い白猫とこの時間の公園には似つかわしくない少年がいた。

こんな時間にこんな所で何をやっているんだ

振り向いた少年の顔は、見覚えのあるものだった。それはいつも教室の片隅で、居眠りをしている生徒だった。その事を他の先生に話したところ、その子の事は放っておいてあげてください。そう言われておかしなことを言うものだと訝しく思ったものだった。

今何時だと思っているんだ。早く帰って寝なさい

少年は気まずそうに頭を掻きながら、しかし立ち上がることなく水平に伸ばした手で遠くを指さした。その先には、巨人の墓標のようにも、深海に突き刺さった鯨の背骨のようにも見える、赤い塔が立っていた。

先生は他の星から来たんですよね?あれが何のためにあるか知っていますか? 

三十七番星には一つ他の星にはない特徴があった。それはこの星ができたばかりの頃に成立した夢を禁止する法律だった。詳しい経緯は分からないが、本来休息のための睡眠であるにも関わらず、休息を妨げる夢は有害なノイズであるというのだ。例えば悪夢を見れば夜中に飛び起きる事もあるだろうし、逆に良い夢であれば起きた時のギャップに苦しむ事になる。非生産的で非効率的で非論理的な、そんなものはない方が良いというのだった。

そこで建てられたのがあの赤い塔だった。その塔は星全体に届くような電波を発しており、その影響下では人は夢を見ることなく、眠りにつけるのだ。

だから先生も、この星に来てからは一度も夢を見ていないよ

確かこの少年も生まれは別の星だったはずだ。少年は、猫を抱き上げた。夜目にも分かるほど白い柔らかな毛並みだったが、尻尾の先だけが茶色だった。

先生は、夢を見ない夜と星の見えない夜は、どちらが暗いと思いますか?

そう言われて空を見上げると、干からびたような雲に覆われ星はやはりどこにも見えなかった。雲の隙間に一つくらい見えはしないかと凝視すると、不意に空が近づいてきて夜の底に引きずり込まれそうな気がした。

さぁ…どっちだろうな

少年は猫のふさふさした背中に顔をうずめるようにして呟いた。

ぼくは、怖くて仕方ありません。夢を見ずに眠る事は、死んでいる事と同じではないですか?

そんな事はないだろう。死んだらもう目覚める事はないが、寝ているだけなら夢なんか見なくたって、朝になれば目を覚ますんだから

少年はしばらく何も言わずに猫を撫でていた。ごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らす音が、ここまで聞こえた。

そうかも知れません。でも、その眠りは夜の一番深いところに繋がっていて、いつかそこに迷い込んで帰って来られなくなるんじゃないか。そう思えて仕方ないのです

先ほどの引きずり込まれそうな感覚が、少年の言葉で蘇り思わず身震いしそうになった。それ以上、少年に何を言っていいかが分からなくなっていた。あまり遅くならないように、とだけ言って猫の頭を撫でた。少年の返事はなかったが、代わりにうにゃんと猫の鳴く声がした。

家に帰ると食事や風呂もそこそこにベッドにもぐりこんだ。体はくたくたで、底の抜けた穴に落ちるように眠りについた。

翌日は朝からあくびをこらえながら授業を行った。午前中最後の教室では、窓辺の一番明るい席で少年が居眠りをしていた。蜂蜜のような陽ざしに浸りながら、猫の尻尾のようにまつげを動かして眠っていた。

2023年6月 三70号 飯塚祐司 作

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