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【子育ちとわたし】#16 長女との一年と、今を感じて

札幌で迎える朝
青空と朝日と手稲山に歓迎され、旭川への旅路にてこれを書いています。

長女が一歳を迎えました。
無事に成長をしていることに感謝です。
彼女に対しての心配はほとんどなく、すくすくと育っています。
彼女の成長に伴って、僕自身が自分自身と向き合うこと、受け入れること、それによって変化・変容すること
同様に夫婦というパートナーシップの関係性の中で育んできた
そんな一年だったなぁ
次の一年も、その次の一年も、またその次も
そして家族が増えていくことで、またそれらが起きてくるんだろうなぁ
さらにカオスになると予想されるが、それがまたとても楽しみでもある。

先日、「はじまりを癒す」という出生前・周産期ヒーリングワークショップに参加してきました。
もともとはファシリテーターの方と妻が知り合いで、彼女がこのワークショップに参加したいと思っていましたが、彼女自身の出生前や周産期を癒すことのために、長女が母と4日間離れるということが、彼女にトラウマ的な体験をつくる可能性があるかもと思い、代わりに僕が参加することになりました。
もちろん妻から話を聞いた時に、僕も参加できたらいいな〜と思っていたので、棚からぼたもちです。
この4日間の体験はすごく素敵なものでした。
そしてこの体験を通しての変化は僕にとっても、家族にとっても、とても有意義なものになっています。
「生まれた時にできなかったことを、僕のペースで僕のやりたいようにして、生まれることができた」
そんな体験でした。
過去の未完了が完了されたことで、自分が満たされる
そしてそれが内側での広がりや深さとなって感じられる
また自分とつながっていること、周りとつながっていることも感じられる
とても豊かな体験でした。
ファシリテーター、通訳者、参加者
それぞれの立場、それぞれの役割はあるけれど、その場にいるみんながつながり、自然界のそれのように有機的に、みんなで生み出したものでした。
この4日間のことを話そうと思えばまだまだあり、特にこのワークショップを行う上での原則、これがとても好きで、我が家でも活用しているのですが、この話はこの辺りで。

2024年の上半期はNLP(神経言語心理学)の学習の旅路にもいます。
ここでの体験もとても素晴らしい。
月に一回2日間の講座があり(残り一回)、特に二月の時の講座では、より自分と向き合うことになりました。
「自分のことを大切にできていなかった」
そんなことを体験した。
現在、僕と妻、長女、息子たち(犬🐕)の5人家族で暮らしています。
この関係性の中で、自分を少し置いてきぼりにして、家族のことを優先するような感じになっていたのでしょう
そんな状況に、自分の中の自分?というか、無意識というか、そのことに氣づいてと言わんばかりの表出してきた
自分を大切にすることの大切さと、いかにそれが難し、蔑ろにされがちなのかというも学びました。
NLPについてもたくさん話したいことがあるが、前提とか、講師が面白いとか、この話もこの辺りで。

NLPの学びを通して、そして先日のワークショップでの体験を通して、いま感じていること
それは癒すことの素晴らしさや大切さ、癒しが人生に与えるパワフルさ
それは誰かに癒やされるというよりは自分で自分を癒すということ
もちろんそれをサポートしてくれる存在はとても重要
ただ、本当にその人自身がすでにたくさんの資源を内側に持っている
そしてつながるということ
それは自分自身ともそうだし、周りともそう
家族、友人、祖先、はたまた草や木、他の動物、大地、海、空気、地球、宇宙、ワンネス、大いなるもの、、、
ちょっと話しが大きくなってきましたね。
まあ、こういうことを知識として思考(マインド)だけでなく、身体(フィジカル)で、五感で感じること、体験することでよりわかってくる。
言葉で語ること、受け取ることも大事にしながら、体験することで、深めていきたいです。

ああ、そうそう、母方の祖母がそろそろ厳しくなってきたので、急遽札幌に帰ってきたところです。
まだ意識があるところであえることができたのでよかったです。
たぶんちゃんと会えるのはこれで最後になるかと思います。
旭川には父方の祖母が一人で暮らしているので、短い時間だけど会いに行ってきます。
無理しすぎることのない範囲で、なるべく祖母や両親には会えるときに会っておこうと思ってます。

死ぬこと、老いること、それはプロセスの一部であり、原則だと思うから、あまり特別視はしたくはないです。
ただとても繊細なものでもあると思っています。
なので大切にしながら、でも過度のならないようにしたいなと思います。
全てプロセスの一部であり、そのプロセスの全部である
「全は一、一は全」
鋼の錬金術師で出てくる言葉が好きで、当時はぼんやりとなんかかっこいいなと思っていたものが、年月を経て、少しずつ確かなものとしてこの體(からだ)に染み込んできてます。

最後は哲学的なところに辿り着いたあたりが僕らしいなと思いながら、列車から見える風景を味わい、そこに佇む

Pura vida

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