バーテンダーと生産者

 バーテンダーで良かった。

 お茶の生産を真剣にやると聳え立つ高い山にチャレンジするようになる。
一口飲むと口の中に広がる衝撃が、やがて快楽に変わり全身が奮い立つ。
飲んだ人の人生を変える、そんなお茶を目指してしまう。

 何もいらない。そのお茶で全てが完結する。そういうお茶。

 実際にそういうお茶は存在する。品評会で大臣賞をとるお茶はそうだ。
熱湯を注いでも全く渋くならずに「なんじゃこれ!?」と思わず唸ってしまうお茶。
キロ数十万円のお茶を作ってみたいと生産者目線の私は思う。

 品評会に出すお茶はいいお茶で、渋い、苦い、癖がある、そういうお茶は失敗作となる。

 癖が強すぎるお茶は作りたくはないが、相手は自然なのでそういうお茶も出来てしまう。「あぁ、またか、全然上手くいかないなぁ」と肩を落とし、自分のふがいなさに涙する年もある。

 そんな時、バーテンダーの私は言う。
「このお茶、このまま飲むのは厳しいけれど素材としては面白いよね」

 そう、お茶はそのお茶だけで完結させる必要はまったくないのだ。

 カクテルを作る時にすでに完成されている素材を使うのは逆に難しい。味は淡白だが香りが個性的だからこの味の強い素材と合わせて、、、みたいな組み立てがカクテルの醍醐味だ。そう、素材としてお茶を捉えると今まで失敗に思えていたお茶が途端に光り輝き出す。

 お茶屋さんの茶師は同じような感覚だろう。個性的なお茶を組み合わせ、店の看板のお茶を作る。それは素材を自在に操り手品のようにカクテルを生み出すバーテンダーのようでもあり、オーケストラをまとめて芸術に昇華させる指揮者のようでもある。

 いろんなお茶の、それぞれのいい面を見つけてそれを上手く表現する。そういう人に私はなりたい。

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