おじいちゃんが植物状態になった

母がたの父親が3月ごろに交通事故に遭い頭を強くあてられその日は「娘たちを呼んでくれ」といったそうだ。次の日急に話さなくなり、話しかけても反応がなく意識がなくなった。

わたしがそれを知ったのは事故から1週間後。聞いた時またなおるだろう、おじいちゃんは大丈夫と思っていた。お母さんに「どれくらいで戻るの?」ときくともう戻らないと告げられた。

わたしのおじいちゃんはいつも家にいくと、競馬を見たりお酒を一日中飲んだりたまに畑に行ってお世話をし、毎日孫のお世話をしていた。定年までしっかりと働き退職後は好きなことをして楽しんでいたと思う。娘たちの子供にあたる孫と四人で過ごす日々。

わたしとおじいちゃんとの思い出はたくさんある。小さい頃おじいちゃんはなかなか実家に帰ってこなくて、(仕事上)たまに帰ってくるタイミングで会っていた。おじいちゃんは背が高く力持ちなので「たかいたかい」してもらっていた。わたしはそれが好きだった。おじいちゃんにしてもらうとなんだかウキウキしていたのだろう。いつもより高い景色にわたしを愛してくれてる想いが伝わってくる。おじいちゃんにご飯を食べさせてもらい、お風呂に入ったりトイレにもついてきてもらった。水族館に連れて行ってくれた。ぬいぐるみを買ってあげると言ったおじいちゃん。わたしはなぜか犬のぬいぐるみが欲しいと言ったそうだ。それをなぜか離さないし、水族館にきて他のにしたらと言われても頑固なので離さなかった。(わたしと言う人間性現れてる)おじいちゃんはわたしの意見を尊重して犬のぬいぐるみを買ってくれた。

わたしはそんなおじいちゃんの優しくて人の意見をちゃんと汲み取ってくれるところが当時は好きだったんだと感じる。

わたしはあるエピソードを鮮明に覚えている。当時わたしが3歳のころだ。おじいちゃんが金の小さい枡をもって「もしさむこちゃん(偽名)がお嫁さんに行く時おじいちゃんがこれを金メダルにして首にかけてあげる」と言ってくれた。その時の声、状況、天気が晴れだった。

結婚したいかどうかはともかくこれをおじいちゃんにしてほしくて結婚したいと思っていた。それ以外のわたしのメリットはない。親が安心してくれるからという認識でしかないのに思い出すと結婚したいなと思う。

わたしはそんな大事な人を全然知らない人に壊された。なってしまったことはしょうがないと思う。

しかし何もなかったこととして流されそうになってる状況らしい。失敗からなにか学んだり気づくことがないとおじいちゃんが植物状態になってしまった救いがない。

謝られても気持ちは晴れないと思う。

結局自分の心が救われたいんだろう。それは加害者によって救われない(罪やお金では解決されない=消火されない)

自分が感じた事は日頃からお世話になっている人に感謝する事だと思う。今になっておじいちゃんにいいたいことはたくさんある。照れ臭い、今は言わなくていい、勝手にまだ生きているだろうと勘違いしていた。人は急にいなくなってしまう。

だからわたしは今に感謝したい。当たり前にやってくれる親に当たり前だと思ってはいけない。わたしはおじいちゃんがいてくれたからわたしがいる。

わたしはそれでも許したいと思っている。

加害者は他人のこの悲しい状況にまず理解できてない。自分のことのように考えられないのだ。もし逆の立場ならという想像さえできないのだ。まずそれを考える余裕もない人なんだ。身近な人がこのようなことが起きても手助けせずあっさりと自分の生きたいように生きると思う。身近な人もかわいそうだがそれを注意できない人も同類だ。

いまは現実的に逃げているつもりだが、逃げてしまった後悔、ちゃんと向き合わなかった自分。人のこの状況を受け入れないと身近な人だともっとことが大きくなるし抱えるものも大きい。あのとき逃げてしまったことをあとから重く感じるのだろう。あと、ずっと彷徨い続けるというのは縛られて苦しめられる。

現実的に受け入れて自分のしたことを否定せず真摯に向き合う方がスッキリして生きられるのを知らないのだと思う。

わたしはそれを受け入れて許したい。その人たちのおかげであっさりしてる人たちの特徴を知れたし、もっと人を大事にして生きたいと思った。


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