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指輪を一日はずしてみただけの話

 きのう、結婚指輪をはずして1日過ごしてみた。

 きっかけはおとといの夜、顔を洗っている間にピアスが耳からはずれ、排水口に流れていってしまったことだ。あー、なんではずしてから洗わなかったんだろう、とか、いくらだったっけ?とか考えてぼうぜんとしてる時に、話しかけてきた夫の言葉に少しざわついたのと、あー、もう体からぜんぶはずしてみよう、と少しやけになる気持ちと、好奇心もあって、15年間左手の薬指からひとときも外したことのなかった指輪をはずしてみた。


 次の日の朝、私の左手の薬指を見ると付け根だけ細くなっている。一晩で戻るわけではないらしい。夫に気付かれるだろうか?ちょっとどきどきしていた。一方の夫の薬指からはだいぶ前から指輪が消えているのに私は気付いていた。恐らくちょっとはずした時になくしたのであろうが、私は「指輪どうしたの?」とさえ聞いたことがなかった。まあ、そのぐらいのものだった。夫婦の契りの証、とかそんな大げさな気持ちを込めるものでもなかったし、それによってお互いを縛るとか、戒めとかの象徴でもなかった。でも、指輪はずっと私の指にあった。


 外回りの時、いつも聞いているラジオ番組の投稿テーマはこの日に限って「指」だった。沖縄旅行の思い出にとっておきの結婚指輪を作ったという投稿を、パーソナリティーが紹介していた。きっときょうでなければ、耳にとまることもなかったのだろう。


 もっとも指輪がないことを意識したのは、手を洗う時だった。せっけんをつけて、手のひら、指の間、爪の先をこすっていく。水で洗い流す時、私は必ず指輪をずらしながら、指輪の間の汚れまで流すようにしていたのだ。いつもの習慣で左薬指の付け根に触れると、あ、指輪、ない、とそのたびに気付く。気付く多さで、自分が1日にどれだけ手を洗っているか、そして今、コロナ禍にあることを意識する。


 指輪がないと気付く度に、夫の顔が浮かんだ。指輪には強固に夫がタグ付けされているようで、そんな仕組みのあるアイテムは他にないのだろうな、と思った。私の左手を握った時、夫は指輪がないことに気付いたのだろうか?何も言うことはなかった。気付いていないのだろうな、とは思う。


 指の付け根は、1日たっても細いままだった。15年。一緒に笑い、一緒に泣き、別々に怒り、別々に泣いたこともあった。その日々が、この付け根だけ細い左薬指に跡を付けたような気がした。


 その日の終わりに、指輪を左薬指に戻した。細くなった付け根に、しっくりと納まった。

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