コーチングとの出合い
「コーチング」というものがあると知ったのは、発達障がいがある次男をどう育てるか、ぼんやり手探りしていた時に、支援機関から紹介されたあるワークショップだった。
私はひねくれ者で、「答え」があらかじめ書いてある本を読んだり、「答え」がちりばめられた話を聴くのが苦手だ。どれを読んでも、自分に当てはまらないところばかりが目立つし、何を聞いても、「例外」を考えてしまう。発達障がいについても、そこに「答え」が書かれていると、「うちの子とは違う…」とページを閉じてしまう。
そんな時に参加したワークショップでは、どう育てるかという「答え」を手渡すのではなく、「答え」を見つける人そのものの存在に焦点を当てていた。「答え」を見つける人をエンパワメントすることで、その人や環境、時機に合った「答え」をその人自身が選んでいく―。そんな過程が魅力だと思い、いつか本業でなくても、そのように支援していくことができたらいいな、とほんわり夢を描き始めた。そのワークショップの主催者が「コーチ」だということが、記憶のフックにちょこんと掛かっていた。
それから少し経って、Facebookで久しぶりにやりとりした大学の先輩が、コーチとして投稿しているのを目にするようになり、ちょこんとかかっていた鍵が振動し始めた。仕事が心から楽しいと思い、もっと成長したい、と思った時に出てきた、大きすぎる願望やそれにともない顔を出す妬みにうまく対処したいと、コーチングを受けてみたい、と思うようになった。先輩にお願いし、コーチを紹介してもらった。
順風満帆を感じていた私は、コーチングをいつでも始められると思っていて、なんとなく始められずに数カ月。青天の霹靂が直撃した。人事異動で、不本意な部署に配置されたのだ。これまで私が自信をもってやってきた仕事は認められなかったんだ―。悔しくて悲しくて、大泣きした。どろどろに腐った感情の行き場が見つからない。その時に浮かんだのは、数カ月前までは仕事で成長するために、と明るい感情で選ぼうとしていたコーチングだった。私はまったく真逆の感情からそれぞれ、コーチングを求めた。あいさつだけ済ませていたコーチに連絡をし、コーチングのセッションが始まった。
自分が考えていること、感じていることを感情むき出しで家族以外の他人に語る経験はなかなかないのではないだろうか。私はコーチの前で怒りをぶちまけ、大泣きしながら語った。それは他人や環境へのうらみつらみがほとんどだったと思う。コーチの前で怒り、泣いた後で、コーチに導かれながら自分の感情と向き合い、自分の言葉を反すうしていると、不思議と環境よりも、自分自身を変えることを素直に受け入れるようになる。それからの私は、他人のせい、環境のせいにすることが格段に減った。他人への妬みもほとんどなくなった。コーチング完了時にコーチに送った感想を引用する。
私はすぐに「すみません」といって引き下がるくせをやめ、欲望を自分のうちに秘めて優越感にひたるのをやめ、他人に自分のことを話すようになった。あこがれつつも「私のキャラじゃない」と切り捨てていた「自分勝手」や「がむしゃら」を実践してみたのである。そうしていると、偶然も重なったのだが、半年で不本意な部署から、今だから、私だからできる重要な部署に請われて異動することになった。
人がどうあるか、どう行動するかで環境は変わる―。コーチングが人にもたらす本質的な変化の影響を、身をもって感じた。
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