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漫才じゃない

漫才好きのみなさん、2021年に新たな漫才論争をしましょう。

2020年M-1グランプリで優勝したマヂカルラブリーは、その奇抜な漫才スタイルが爆うけして優勝したことに、「漫才か漫才じゃないか」という漫才論争をたてられ、芸人やらコメンテーターやら、日本中の人々がマヂカルラブリーの決勝で披露した漫才に自分なりの見解を述べていた。
そもそもなんで「漫才論争」なんかが起こるのかと言うと、多くの人々の中に漫才という形式のお笑いが染み付いていて、ある程度のイメージと枠が共通認識としてあるからである。「漫才 イラスト」で調べればイラスト屋のフリー画像で、俗にサンパチマイクとも言われる漫才マイクを挟んで、スーツを着た男性2人が手振りをつけながら話し合っている様子が描かれたものが、トップに出てくるだろう。みな、この”いかにも”な漫才をイメージしているから、女性漫才師の誕生は歴史的に意義があったり、しゃべくり漫才から漫才コントが生まれた時に「革新」なんて言われたり、もっと言えば、サンパチマイクがなくただのスタンドマイクの会場だと「ちょっと安いな」と感じたり、ネクタイを閉めていないと「今日は緩めにやるのかな」と思ったりする。各々少し条件が厳しかったり緩かったりすれど、ぼんやりと「漫才とはこう言うもの」という意識が、人々の中にある。だから、その中の要素が1つでも欠けたり変わっていたりすると、「違和」を感じるのだ。

今回のマヂカルラブリーについての漫才論争も、その「違和」にそれぞれの感情と言葉が便乗したものだと言えるだろう。このnoteでも、そんな「違和」に着目した話題を提起しようと思う。まぁ、新たなとか言っても昔から思い溜めてきたことを吐露するだけである。これに共感してくださる方はみな漫才オタクの同志と呼ばさせていただきたい。
では。

ルールでガチガチな漫才と自由自在なコント

現在のお笑いだと二大巨頭が、漫才コントだろう。
同じお笑いといっても、大きくその形態の異なるエンターテイメントは、あまり真っ向から比較されることはなく、並列で並べられて1つの「ネタ番組」と称されたり、2本の刃として「二刀流」と呼ばれたり、大会においては、部門を完全に分けて行われることが多い。それによって生まれたのが、M-1グランプリとキングオブコントである。
真剣に比較し始めたらキリのない話だが、キングオブコントでは様々なキャラクターがいて場面設定も様々で、プレーヤーも出たり入ったり、音楽も小道具も明点暗転も自由に構成されているのを見て楽しめるが、M-1グランプリでは、Mの間からだいたいスーツを着た2人が駆け下りてきて、マイクを挟んで立って話すだけで、いまだかつて、被り物をつけてきたり、マイクの位置を移動させたり、途中で効果音が流れたり、照明が落ちたりしたところを見たことがない。
2019年に決勝に出たすゑひろがりずは完璧な衣装と小道具で登場し、見事なコント漫才を成し得たが、2008年優勝のNON STYLEは、漫才中にリップクリームを使ったことを審査員の松本人志から指摘されたこともあった。その前年に敗者復活を見事勝ち上がりそのまま優勝したサンドウィッチマンは、M-1に漫才コントを持ち込んだ一組ともいわれるが、復活後のM-1で何度も決勝に進んだジャルジャルは、完璧なしゃべくり漫才で優勝を果たした初代M-1王者の中川家・礼二に「ジャルジャルの漫才はコントだ」と言われ、そのスタイルを認めてもらうのにラストイヤーまで苦戦した。

別に何かを禁止されているわけではなく、とにかく面白い漫才をするのであれば、問題ないはずだが、漫才師はある一定の枠を越えない。どこにも明記されたことのない見えないルールにガチガチに固められているのである。(ここは2007年伝説のコンビ松本&トシの漫才中のセリフで脳内再生を…)
その共通した意識、もはや意志のようなものがどこからくるのかは、誰もわからない。伝統だからなのか、慣例への憧れからなのか、話術だけで笑わせたいというプライドからくるのか、1周回って無意識なのか、はっきりとした理由は誰も知らず、誰も語れないだろう。

そのような大会に限らずとも、テレビ番組内でもコントの自由度漫才の制限度合は見て取れる。コント番組ではいろんなタレントを交えて、コンビどころか芸人の枠さえ超えて、1つのコントを作れる。それがたとえ手の込んだ大掛かりなセットの中で用意された衣装を着ていようと、情報番組のコーナーで突然振られた小道具1つない状態であろうと、コントはコントである。
ただ、漫才となると、マイクはいるし、無茶振りで振れるようなものでもなければ、そこにゲストやタレントが参加するとなると、なんか緩くなりお遊びのようになるし、コンビを入れ変えただけで企画感が増してしまうのだ。漫才にはコントに比べて、明らかに誰も見たことはないがなんとなく知っている、そんなチェック項目が多いように思える。

コント自由だからこそ、好みが強く出る。
コント師は自分の笑いのセンスや世界観をコントの中で存分に表現できるわけで、大会に出てくるようなある程度のプレイヤーと持ち時間の決まったコントの枠の中でも、設定、場面、登場するキャラクター、大道具小道具、音響照明、物語の展開によって十組十色のコントが見られる。そんな個性が出やすいコントだからこそ、受け手の個性も多種多様であることが前提とされている。見る人のお笑いの好みやセンスが笑いの量にも評価にも関わってくるため、ある意味、公正に評価することは難しい。それがみんなの意識下にあるからこそ、そのもとで点数をつけて順位を決めるキングオブコントは、その審査員長である松本人志曰く「キングオブコント優勝3回してやっとM-1グランプリ優勝1回分」らしい。このボケでみなが笑えてしまうのは、そんな、趣向の強いお笑いほど評価も趣向に偏る、という前提があるからなのかもしれない。
この辺りから言葉を慎重に選ばなくてはならないが、自由度の高い大会ほど、その後の世間からの評価にも幅があり、逆に自由度の低いルールが厳格な大会ほど、限られた中での努力と工夫を評価されて、確固たる地位を獲得できるのだろう。

漫才を見るときの違和

また長い枝葉だらけの前置きを経て、本題へ移る。
やはり自分にもここまでに書いてきた漫才の定義のようなものが根底にあって、タイトル通り、自分が「漫才じゃない」と思う漫才がある。今日はそれを大放出する。テレビなど媒体を通して見てきた漫才と劇場で生で見てきた漫才で区別して書く。

テレビでみる漫才じゃない漫才

1.正直そんなにたくさんの画角はいらない
本来漫才は真正面ちょっと下から漫才師とマイク全体を見上げるのが基本スタイルである。これは寄席の形を基本とする。それをテレビで披露するとなると、視聴者が見やすいようにとバストアップ画角でアップにして映してくれることが多いが、これは本来の見え方とは違う。便利だからこそ弊害が起きる。たとえば、全身を使う動きをした時に画角を引きにしなくてはいけなかったり、1人の長ゼリフの時に1人のアップになったり、画角をコロコロ変えなくてはいけない。その時に、動きに間に合わず、ずれてしまったり、もう一人の表情や反応を見られなかったりする。まして、観覧してる客やゲストを映すときもあったり。あーもう漫才じゃない。たとえ漫才師の顔を見たくても、頭から足先までの出で立ちや細かな動きが大切で、たとえその瞬間は1人しか話していなくても、相方がどんな表情やどんな反応をしてるのかそんな些細なところが大事だったりする。

2.本当はピンマイクも嫌
ピンマイクは一人一人の声を別で拾えるテレビ収録には欠かせない機材で、漫才マイクがあったとしても、正確に声を拾い放送するために漫才師にピンマイクをつけることも多い。ただ、時に、サンパチマイクの方は全く入っていなかったり、なんなら、個々で拾った音声を編集して放送されることもある。ちゃうねん。マイクに近寄った時に声が大きくなったり、あえて遠くでボソッといったり、コントに入るとマイクから離れるから聞こえ方が変わったり、そういう細かな違いさえ漫才の要素である。それを全部均一に聞こえるようにしてしまったら、それは漫才じゃない。

3.ゲストのマイクはボリューム下げて
たまにネタ番組だとゲストがいて、芸人や他のタレントが見ていたりする。笑い声はいいとして、コメントを拾う時がある。ダメよダメダメ。漫才に集中させて。

4.漫才にワイプはいらんよ!
上と同じ要領。
以前、ENGEI GRAND SLUMにて和牛が漫才をする時、客席モニターに見た目のインパクトが強いアインシュタインの稲田が映ることになっていた。そのことについて、後に和牛の水田が「漫才中にいなちゃんが映ったらお客さんの気が散るから変えてくれってスタッフに交渉した」と話していた。まさにこれで、あまり漫才中に余計な視覚情報を入れたくない。普段漫才を見る時、隣のお客さんの顔は絶対に見えないし見ない。漫才を見てる人のリアクションは、漫才中に見なくていい。

そういう意味では、今のM-1グランプリはほぼ完璧な漫才の放送の仕方をする。画面に編集で移るのはロゴと出番順、コンビ名のみ。画角は、正面2種類、左右からの表情アップ2種類で、正面は漫才を映すにはベストな、頭から、下ろした腕の指先までがしっかり映るサイズと、頭から、足先までうつる引きのサイズで、左右からの画角もきちんとどちらの漫才師も映るように撮られている。漫才師のひとりが大きく動いた時も、引きに切り替えてできる限り終えるようにしている。時に審査員が映るが短く済ます。マイクはサンパチマイクのみ、ピンなし、マイクから離れた時はステージ下のショットガンマイクで音声スタッフが必死に拾ってくれている。生放送で、BGMやワイプはもちろん、漫才師の声も観客の笑い声も審査員や司会の声も編集なしでそのまま放送されている。これを普段の収録のような完璧で細かなリハはできないまま、生でその場でやるというのに、拍手を送りたいほどである。漫才愛と漫才師愛に溢れた大会だとつくづく思う。

5.漫才中に広告入れんのやめて
楽天カードマーン!じゃないんよ。漫才途中にCMはありえないとして、YouTubeに公式で上がっているネタ動画などでよくある。漫才の流れを止めるとかもってのほかである。途中で余計なもの入ったら、漫才じゃなくなるから。あぁぁってなるから。

6.テロップ入れないで
漫才のテロップてなんやねん。もちろん面白い漫才は文字に起こしたものの時点で面白いといわれることもあるが、細かなことをいえば、漫才の言葉は彼ら漫才師の声質、話のスピード、抑揚、間合いから得られるイメージが見ている人の頭の中で膨らんでいったり壊されたりするから面白い。それを視覚的に文字で読んでしまったら、漫才じゃない。特に、TVのテロップはフォントや色によって言葉にイメージをつけることができてしまう。そのテロップが与えるイメージが必ずしも漫才師の放つ言葉の意味合いと合致するとは限らない。だからこそ、彼らの伝えたい「漫才」と彼らが作りたい笑いを崩しかねないと危惧してしまう。

*ただし、字幕を除く。もちろん自分の思う理想の「漫才」とは見方が違うかもしれないが、アメリカや韓国、オーストラリアに住む友達に字幕を付けて漫才を見せた時、たくさん笑ってくれたことに感動したことがある。日本のエンタメは精度が高いと褒められて、誇りにも思えた。同じ文化の中に生きていなくても、このように一緒に笑えることがあるんだと字幕に感謝した。他にも聴覚に不自由のある方でも漫才を楽しんでもらうには字幕は必要で、漫才を伝える最大限のツールとして使えるものは活用していくべきである。近年はYoutubeにネタをアップする芸人も増え、英語の字幕が完璧に振ってある動画も多く見られる。グローバル化が進む中で、日本のお笑いの文化が広まっていくのも素敵なことだと思う。

7.注釈はいらない
個人的にテロップ同様余計な情報を彼らの話以外にいれたくない。だから、テロップ以上によくあるが、ネタ中に出てきたものや人の名前に合わせて、その画像やイラストを表示される度、「あーいらんよー!」と思ってしまう。わかりやすくしようというものであっても、それを想像で楽しむのが良い。漫才ででてきた時事ネタがわからなくても、後で調べるのがいい。だから、サンドウィッチマンがちょこちょこ男塾やプロレスの話を挟んできても、ん?なんか言った?というあの間合いが良いのだ。時事ネタ漫才で周りが笑ってるのに自分だけわからなかった時に、うわっついてけてないかも…って少し焦って時代の流れを知るというのも楽しみの1つで、そこに毎回注釈をつけてたら、全て失われる。漫才師はそもそもお客さんの想像力も加味してネタを作っているから、彼らの調節具合のままネタを見たい。

劇場でみる漫才じゃない漫才

8.漫才師と同じ目線はありえない
前記のとおり漫才を見る目線は少し下から見上げるくらいがいい。しかし、場所によってはステージを用意できず、文化祭や野外、デパートメントの中での営業だとステージがなく、漫才師とお客さんが全く同じ目線ということがたまにある。それは近くにいる人の面白い会話やん。10cmでもいいからステージを。辞書かき集めてきて積み上げたくなる。
また逆に、漫才をするには大きすぎる箱だと2階席3階席4階席まであって、もはやオペラグラス案件な劇場で漫才を見ることもたまにある。それだけお笑いに人を動員できるというのは嬉しい事実だが、米粒サイズにしか見えない人の会話を聞くのは、盛大な盗聴をしているような不思議な感覚になる。漫才にちょうどいい箱の大きさというのが、やはりありそうだ。

9.出てきて はけて
時間の詰まったライブだと、トークや企画コーナーからネタに入る時に、他の人だけはけてとりのこされた漫才師がそのままネタ披露することや、ネタを終えてから、MCが出てくるのを待って、そのままトークに入るということがある。お願いだから一旦はけてー!
これはテレビ番組でもよくある。ネタ後にはけさせないで、そのまま提供紹介が入ってCMのような流れ。はけさせてー!
出囃子→どうも〜→マイク調整→挨拶→つかみ→本ネタ→オチ→ありがとうございました〜→はける。これが一連の流れである。これは崩せない。特に終わりのはけるところは、あのタイミングで大ボケが決まって、最後のツッコミが入って、ウケて、「っざました〜」って頭を下げて、顔の見えないままするっと去られるのが、笑いの余韻に浸れて良いのである。言いたいこと言って笑わせるだけ笑わせてさっと帰っていくあの感じもかっこいいわけで。それを、舞台に残して、そわそわしてるところを見たら、こっちまでそわそわしてしまう。
唯一賞レースの時だけは、漫才後の反省やコメントを聞ける。これが新鮮でいいのだ。さっきまでわーわー騒いでいて今ド緊張してる漫才師とさっきまでぎゃはぎゃは笑っていて今ド緊張してる観覧・視聴者で、ネタの評価を待つあの瞬間は異様な空気である。それでも、やはりネタとの区切りはつけるから、どんなコンテストであれ1度袖にはけさせてから、コメントを聞くのに出てきてもらう。以前M-1グランプリでも、漫才師がネタをした後そのまま舞台に残っていたが、そのシステムをやめて、すぐ後にコメントを聞くにしても1度はけさせるようにした。やはり、この切り替えはとても大切である。

10.マイクの高さは調節可能に
これは劇場でもテレビにでも言えることだが、たまにマイクの高さがひとつに決まっていることがある。平均くらいに合わせて、マイクがそこから個々に合わせて調節できず、出演者全員同じ高さで同じマイクを使うことがある。これをすると、身長の高低によって高すぎて顔が見えなかったり低すぎて声が拾えなかったり、漫才じゃなくなる。

11.マイクや舞台はなるべくシンプル
これも劇場テレビどちらにも言えることで、漫才における視覚の情報の無駄を語ってきたが、結局、必要な視覚的情報はマイクと漫才師とその整えられた衣装と身振り手振りが最大限である。これ以上に目立ったものがあると、気になって目がいってしまう。マイクに大きめの飾りがあったり、後ろに人がいたり、ステージが華やかすぎたり。若手漫才師で「ネタを見てほしいから衣装はできる限りシンプルにしています」という人をたくさん見てきた。漫才師側もやはり1番見てほしいのはネタであって、それに必要な景観以外はできる限りなくすのが1番であると、自分も思う。

Last.お客さんは絶対に必要
言いたかったのこれでしょと言わんばかりの。
コロナに劇場を閉ざされる世の中になり、配信サービスなど新たな取り組みも増えたが、以前はリモートでの2画面での漫才(?)、同じステージに立ててもマイク2本でソーシャルディスタンスを保った漫才(?)、マイク1本になれど間にパーテーションのある漫才(?)、そして何より、お客さんのいない無観客での漫才。
何度も書いてきたが、ここでやっと皆が思っていたことを、もう声を大にして言おう。

これは漫才じゃない!

ここまで、漫才はだいたいステージとサンパチマイクと漫才師とスーツと語ってきたが、それともう1つ忘れてはいけない重要なものが、やはり、お客さんであると、自分は思っている。
ボケがあってツッコミがあって、そこにお客さんの笑いが入って漫才である。客層を考えたネタを選び、客の重い軽いを見てネタを変えていく。お客さんをどれだけ掴めたかも込で漫才の空気感であって、笑いのタイミングも込で漫才における間であって、お客さんの笑いの抑揚も込で漫才師の本調子である。そのサンパチマイクを中心にした笑いの三角形を、テレビであれ劇場であれ、崩すことは出来ない。
だからお客さんのいない漫才を、漫才とは言い難い、言いたくない。
また早く漫才を見たい。本物の漫才を。
漫才師がつくって仕上げてくるネタに、笑い声として参加して、共に完璧な漫才をつくりたいと、強く願いを込めて。
世の中全ての漫才が、「漫才」と言えるようになりますように。

キングオブコントの決勝進出者が決まる中、M-1グランプリはエントリー期間の夏を終え、本格的に予選が始まった。今年も観客のいる生の笑い声のある大会を開催できるようにとスタッフさんらが必死に動いているのを見て、秋の寒さとともに体に緊張が走った。


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