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希望への歩み方

1【巻き起こる嵐】

「うぅっ…わぁぁぁーーー!」
私は我を忘れていた。
アスファルトにひざまずき、手のひらから血が滲み出るほど打ちつけている。
『私が一体何をしたというのだ!』
この心と体がバラバラになってどうしようもないくらいの怒りが込み上げてくる。
一番嫌な自分をさらけ出している。抑圧された感情を体の中から声となって吐き出している。

「なんなんだよ!
このクソみたいな人生は!
私が何したっつーんだよ、ふざけるな。
みんな私利私欲のために私を利用するな。
なぜ、私を攻撃するんだ!」

私はどうしようもなく腹が立った。その怒りをキョウイチにぶつけている。
乱暴な言葉遣い、物に当たる、バンバン地面を手で叩く。
私の手のひらは腫れて赤黒くなっている。
この感情をその時、その時に出していればこんな人生にはならなかった……今まで耐えてきた感情が彼との出会いで一気に噴き出したのだ。
堪えてきた二十年だった。

この感情が吹き出すきっかけになったのは、スーパーでレジのアルバイトをしている時に出会った人だ。
キョウイチは私に「夢が叶うよ」と言った。
私は、何のことだか分からずにポカンとしていると、彼は続けてこう言った。
「あなたはオペラを歌うと良いよ」
「へっ?」
一瞬拍子が抜けるのと新手のナンパか?と思いつつ笑ってあしらったのを覚えている。
あの時の私からすると、想像もできないほどの突拍子もないことだったからだ。
でも、そうではなかった。彼は私の未来が見えていたのだった。

ーーー不思議と警戒心は消えていたーーー

キョウイチはうずくまる私の背中に手を置いて
「ほら、多分もう歌えるよ」彼が言う。
なぜこの人は私にオペラを勧めるのか、私は一度もオペラというものを歌ったことがない。
しかし、体の…お腹の底から…何かが湧き上がってくるような感覚があった。

“amore è palpito dell'universo intero,
Misterioso, altero,croce e delizia al cor !

愛は全世界のときめきで
神秘的で、尊大で、心に苦しみと喜びをもたらすと!”

「そう、それだよ…」
「私は…私は、これを歌いたかったんだ。だけど、なんでイタリア語で歌えるの? 勉強もしたこともないのに」
「遺伝子レベルで記憶されているんだよ」

やっと気がついた。心の底から歌いたい。日本に生まれて正真正銘日本人だけど、イタリアのオペラを歌いたかったんだ。
迷い続けた学生時代、いじめ、猥褻、暴言暴力。
虐げられてきた私の自尊心。
言葉の壁ではなく心の壁を解き放ちたい。
それは、私の体から小さな芽が芽生えてきた瞬間だった。

私の生きる目的は『歌で癒しを届けること』
私が心穏やかに過ごせる日常を取り戻したい。
だからこそ、一番望んでいたオペラが目の前にあることが幸せなんだ。








2【ひとりぼっち】

五人家族だが、幼少の頃からいつもひとりぼっちだと思っていた。
それは、自閉症の弟のこと。話すことが出来ない、意思疎通が出来ないことから母は24時間、弟に付きっきり。
長女の私は、小さい頃から自分で何でもやらなければならなかった。

「おかぁしゃん、えほんよんでぇ」
「あとでね」

「おかぁしゃん、おなかすいたぁ〜」
「テーブルの上にあるパン食べていいよ」

「おかぁしゃん…」
「……」

母は毎日毎日、いつも忙しくてまともに相手してもらえなかった。
それほどに手のかかる弟だった。
重度の発達障害の子どもを持つ家族にとって、それはそれは想像を絶する日常だったのだ。


「なんか臭い!」
私が小学校から帰ってくると、私の部屋で弟がお漏らしをしていた。これがうちでの日常…
どうしてトイレでしてくれないの…
なんで私がこんな思いをしなくちゃならないの…
弟は紙パンツをはいていても気持ち悪いのか、すぐ脱いでしまう。
汚れた部分を洗ってアルコール消毒をする。
これがうちでの日常…
気分を変えて外に出ても、弟のことが頭から離れない。
パァーっと遊びたいのにそういうこともできない。
だんだんと友達の家とは違うんだということを認識し始めた。



二つ下の弟が生まれたばかりの頃、本当に可愛かった。天使かと思ったくらいだ。
私は母と一緒に弟の世話をした。お姉ちゃんだから。
弟が発達障害だと診断されたのは一年経ってからのことだった。
母は落胆しただろう。
どんな未来が待っているのか、小さい私には想像もできないことだった。

弟は最重度発達障害の持ち主。
心が純粋すぎる。暴力はしないが、自傷行為が激しい。
察しがよく、電車がくる時間を知らないのに、電車がくる時間に合わせて駅へ行く。
人の感情も読めて、私が辛い時に寄り添って心を支えにきてくれる。そんな時は、弟の笑顔が本当に天使のように見えた。

弟は何のために生きているんだろう。素朴な疑問だった。
母や私に手伝ってもらって生活をしている。これは一生涯誰かのお世話にならなければならないことなのだ。誰かの役に立つのではなく、ただ生きているだけに過ぎない。
こういう人生もあるんだ。
弟の人生は慈愛に満ちた人生になるのか、転落する人生になるのか、周りの人間によってどうにでもなってしまうものなんだと思った。

それもまた…ひとりぼっちということなのか。
周りの人と関わっていかなければ生きていけない。
弟の心の中は誰にも分からない。
弟もまた孤独なのだろうか。








3 【強迫観念】

『みんなの家とは違う』
実際それをどう伝えれば良いのか、分からなかった。

「おはよう」「おはよう…」
挨拶しても何だか違う。居心地が悪い。みんなと同じ空間にいても何だか違う。
何だろう、この違和感。だんだん話せなくなっている。
実際、友達がこっちを見て何かヒソヒソ言っている。
私はたまらずトイレへ駆け込む。一人になるこの空間だけが私を正常に保たさせてくれる。

「ちょっと臭くない?」
クラスメイトがこっちを見る。私をどこかの異国人を見るかのような目つきをして手で口を隠し、少しニヤついた顔をしている。
何も言えない…
たまらずトイレに逃げ込む。
『私は臭いんだ、汚いんだ、ううぅぅ…手が真っ黒。汚い、汚い、汚い』
私はトイレの洗面所で何十分もずっと手を洗っていた。

クラスで完全に孤立していた。いじめも加速化していった。

どうしてこんなふうになってしまったのだろう。
私は汚いのだろうか。
何も言い返せない私は弱虫なのだろうか。
みんなの視線が怖い。針が頭に刺さってくる感じだ。
この世界から犯罪者のように扱われる。
排除された気分だ。
先生も仲の良かった友達も誰も私を助けてくれない。

『どうして私がこんな目に合うのだろう…』

悪いことはさらに続いた。
通っている塾での出来事だった。塾の先生からやたらと触られる。最初は頭をポンポンされ、日を追うごとに手や肩、背中を触ってくる。

小さい頃から何でも自分でやってきて、あまり母親と父親の温もりを感じることはなかった。
だからなのか初めて先生に触られた時、『温かい』と感じたのだ。
だが、その行為は私の人生を大きく揺るがすものだった。

『私は汚い』
『私は弱い』
『私は邪悪な者』 

自分の心の中でこういう言葉が飛び交う。自分を大きく卑下してしまう。
何も楽しみを見出せない。希望もない。
周りの友達、卑劣な大人に操られて身動きがとれない。 
どんどん奈落の底に落ちていく感覚があった。
私はずっとこのままで生きていくのだろうか。
何もできない自分は生きていて良いのだろうか。

ふと気がつくと、私はビルの屋上に立っていた。




4 【救い】

屋上から見る空はとても青かった。澄みきったこの青空が私の心を洗い流してくれる。
何もかも忘れてこの青空に抱かれながら飛んでいったら、私は鳥のように自由になれるのではないか。

『フェンスの向こう側は、何者にも囚われない自由な世界だ!』
『自由になれば私は何にでもなれるんだ!』
『そういう世界で生きたいんだ!』

伸びた手でフェンスを握った。そして下を見る。下界の日常があった。

『あんなところには戻りたくない…』ふと我に返った。
今ここで落ちたら、下界にいるアイツらと同じ場所に戻ってしまう。それは嫌だ。
ここを飛び越えたら自由が手に入るわけがないんだ。落ちたら死ぬ。私という存在がなくなるだけだ。
フェンスに掛けた手を下ろし、ゆっくりと後ずさりをした。
すると何かにつまずき尻もちをついた。
膝がガクガクして全身に震えがくる。自然と涙が溢れ出てきた。
私は大声を出して泣いていた。



歌うことが好き。
もう幼稚園の頃から歌手になると決めていた。
歌を歌うと落ち着き、心は平安になる。
呼吸するのと同じように、おしゃべりするのと同じように、歌うことは必要なこと。
これを取り上げられたら命がなくなると同じこと。

でも私は今、死のうとした。もう、歌えなくなるところだった。バカな考えだった。
歌という宝物があるというのに、私は自分自身を捨てようとした。

もっと強くならなくちゃダメなんだ。
いじめてくる奴ら、優しさに漬け込む大人。
なんで悪い奴らが生き延びて、私が死ななきゃならないんだ!
どう考えてもおかしい!

父母、弟たち、学校のみんな、先生…誰一人として私を認識していないようだ。
『それって、私はこの世にいなくていいことなの?』
そんな思いになった時、歌を歌えば救われる。
心が落ち着く感覚。体が喜ぶ感覚。そして求めていたもの。
私は歌うことが好き。
これは誰も私から取り上げることはできない。
神様でさえも。

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