見出し画像

Sing〜笠木先生に捧ぐ

歌を歌いたかった。
シンガーになって有名になりたかった。
元カレへの腹いせだったかもしれない。
私という存在を知らしめたかった。

若い頃の私は、自己中心的な世間知らずの小娘だった。

同じバンドのメンバーでドラムを演奏しているカレが
「ダメじゃないか、そんな歌い方をしていると喉がやられちゃうよ」と私の歌い方にケチをつけてきた。
もちろん、カレは心配してのことだったのだが、私は自分を貫きたい一心で誰の言葉も聞き入れなかった。
そんな態度に業を煮やしたカレは、別れを告げてきた。私も引っ込みがつかず、そのままあっさりと受け入れバンドも辞めた。

バンドを辞めてからというもの、歌う場所がなくなった私は、焦った。呼吸をするように生活の一部として歌があった。
バンドを辞めず歌を歌っていればそれで良かったと後悔をする。
なぜ、元カレの意見に反発して別れてしまったのだろうか。

心に木枯らしが吹く。もうすぐクリスマスだ。
周りの浮かれ気分とは裏腹に沈み込んだ私。カラフルなショーウインドウに情けない自分の姿が映っていた。
そんなブルーな気持ちを持ちつつも、気晴らしに本屋に立ち寄った。
雑誌コーナーをウロウロしながら、ふと “ボイトレ” の文字が目に入った。『一月生募集』
私は、これだ!とすぐさまその雑誌を買い、その募集しているミュージックスクールに電話した。


そのミュージックスクールは伝統のある学校だった。
最初に対応してくださったのがボイストレーナーの笠木先生だった。とてもハリのある声、はっきりとした口調。笑顔を絶やさない先生に少しほっとした。
事務的なこと、レッスンの流れの話を聞いた後、体験レッスンをした。
私は発声練習をするのかと思っていたが、そうではなかった。
「ではまず、よつんばいになって」
「え?」
「息を吸いながら猫みたいに背中を丸めて〜 お腹が膨らむようにいっぱいになったら〜 一気に脱力して息を吐く フュッ! はい、これをやってみようか」
私は見よう見まねでやってみると、意外に体を使って体力を消耗するということが分かった。額に汗がにじむほどに。
「歌うってことは体を楽器だと思ってください。自分の体の中に空気をいっぱい取り込めばそれだけ大きな楽器ができて、ハリのある声が出てきます。体の中で共鳴させるのです。そのためには体を鍛えなければなりません」

それからみっちり、寝た状態で足だけを上げ下ろしする腹筋運動、首だけ起こして声を出しながら胸鎖乳突筋を鍛える運動をした。これを毎日する習慣をつけてほしいと先生は言った。

そのボイトレを受けてから毎日毎日…筋力アップしようとがんばってトレーニングした。だんだんと筋力が付き始めると、高音域が出るようになった。
あのバンドで声を絞り出すように歌っていた私は、反省した。元カレの言っていたことは私を心配してのことだったのかと、今頃になって分かった。素直じゃなかった…
“歌う” “声を発する” ということの原理を知った私は、ボイトレに夢中になった。やればやるほど成果が出る。


「先生、なんで私は歌を歌いたいんだろう?」
「おっ! 良い質問だね。先生にもその答えは分からないなぁ。でも、歌い続けた先に何かが見えてくるんじゃないかなと先生は思うよ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?