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戦争を生き抜いた祖母の人生

終戦記念日に
月島で妹と娘の女子会で
もんじゃを食べながら
家族の話しになった

私は15年前に90歳を超えて亡くなった
一緒に住んでいた祖母について
昔からある種の憧れのような羨ましさをもっている

その人生を妹は
本当に幸せだったのかな〜と
右手にカシスウーロン
左手にハガシをもちながら
もんじゃの端っこのおこげを口にいれ言った

私の目には
祖母は亡くなるその日まで
幸せそのものに見えた

祖母は東京の生まれで
女学校まで行かせてもらえるほどの
裕福な家庭に生まれた

裁縫が得意で
波縫いのキレイさに
子どもながらに感心しながら見ていたのを覚えている

祖母は身体が丈夫で
毎日、私たちの食事を作り
針の穴に糸が通せなくなるまで
我が家の繕いものを担っていた

お針子の仕事をしていたとよく言っていてが
多分、恐らく、仕事というか花嫁修行のような
当時の女子が習わされていた程度のものだと思われる

つまり
祖母は仕事らしい仕事をせずに
専業主婦として8人の子どもを産み育て
4人の孫の面倒をみてくれた

祖母の何が羨ましかったかというと
1度も働いたことがないのに
晩年は、私のお給料より多い年金をもらっていた

お金に困っている様子は微塵も感じなかった

妹は
家庭に縛られた人生だったと
自分だったら嫌だな〜
というようなことを言っていた

戦争を生き抜いた人生だ
8人の子どもを育てるのに
多分、全くお金に困らなかったとは思わない

その理由に
カレーを作るとじゃがいもが嫌だと
配給でさんざん食べさせられたからだと話してくれた

私も祖母と同じような人生を勧められても
謹んでお断りすると思うが
限られた環境の中で
我慢せずに生きることができるとしたら
幸せじゃないかとは思う

祖母は結婚して苦労させられたと
祖父にボヤくことがあったが
恐らくそれは祖父が甲斐性なしだったのではなく
時代の女性の生き辛さだったのかもしれない

COVID-19パンデミックを体験して
今までの当たり前が通用しない
社会生活の変容ぶりを目の当たりにして
戦争がもたらしたものは
どんなに人々の心も蝕んだだろうかと
少しは祖母たちの気持ちを感じることができた

限られた環境で生きることしか許されなかった時代の
祖母の人生は
平凡だったかもしれないけれど壮絶だっただろう

幸せだったのか?

今となっては直接確認することができないが
祖母の人生の一部を生きた者として
私の生き方に良い影響を及ぼしているのは
確かだと思う

いのちを繋ぐ意味

それは単にDNAの伝承ではなく
1人では完結することのない人生を
家族が紡いでいくことなのかな?と
人生わかった気になった夜でした

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