ネット通販・電子書籍時代に突入した「リアル書店」のこれから

皆さんは月にどのくらいの頻度で「リアル書店」に行かれるだろうか。そんなことを不意に考えてしまったこの記事である。

なんでSUUMOなんだよ

とは思ったが、まぁ「街」というものを文化的側面から語る不動産サイトが有っても悪くはない。筆者が神楽坂の人間として、出版業界の人間として、非常に実直かつ丁寧に心の描線をなぞりながら、こんにち多少アナクロ的な意味さえ持ちつつある「本屋」と言うものに、「本」と言うものにこだわりを持っていることが伝わる。

しかしご存知の通り、また筆者も文中に述べている通り、書籍の売上はすでに下降曲線を描いており、「リアル書店」の数も減少の一途だ。ここでなぜ私が単に「本屋」ではなく「リアル書店」と言う造語を持ち出しているのかは論を俟つまい。そう、その対立項はAmazonに代表される「ネット通販」であり、せっかくだからkindleに代表してもらうが「電子書籍」である。

これは実のところ奇妙な対立関係にあるが、「ネット通販」が流通の電子化であり「電子書籍」が媒体の電子化であることを考えると、何とも「リアル書店」が単独で勝ち残って行くには、情勢は厳しいように感ずる。だが間違いなく、これらの対立構図は確かに「リアル書店」を苦境に立たせているにも関わらず、トータルとしての書籍の売上は全体で落ちている。

こういうときに必ず引き合いに出されるのが「若者の活字離れ」と言うやつだが、中年の私にとってもこのフレーズは好きじゃない。情報技術の進歩とともに、情報発信のメディアはすでに多様化している。つまり若者は、活字――いや、そもそも現代において「活字」が使われている現場のほうが希少なのであるが、文字から情報を得ていないわけではない。そうした媒体と情報の有り様はここ10年来で大きく変化を遂げたのだ。その功罪はともかく。

その点について、筆者はこう述べている。以下、引用。

僕は、インターネットの編集も校閲もデザインもされていない情報は、つまりパブリッシュではないから、パブリックじゃないって考えている。たとえ友だちが発信した情報でも、情報の裏もとらないで、安易に同調も拡散もしない。

実のところ、世の中に突如氾濫した情報の多くは、こうした「パブリックでないもの」でその多くが占められていることもまた、現実として横たわっている。我々はWorld Wide Webと言う真偽不明の情報に満ち溢れた大海の中を、ただ漂泊しているに過ぎない

筆者は、通い慣れた書店が閉店したことで大いに動揺し、考え、行動に移した。なくなってしまったのなら、作ればいい。そうして筆者は神楽坂に書店を構えることとなったのである。

書店は現代に於いて「必要不可欠か」と言われれば、それは否だろう。オルタナティブな流通ルートは存在していて物流が吹っ飛ばない限りは、そのルートに頼ることを非難することは不可能だ。同時に電子書籍と言うメディアは、まだ普及が緒に就いたとは言い難いが、誰もが当たり前に高解像度な可搬メディアを持ち歩く現代に於いても、その普及の波音は消せまい。

では書店は、リアル書店は現代に於いて「不要か」。

その答えも亦、否である。

リアル書店は現代に於いても文化の担い手だ。その役目が終わったわけではない。ただ多くの人々が利便性と即時性に囚われ、リアル書店に足を向けなくなったわけでもない。なぜなら彼らの多くはそれ以前から書店や書籍に対して重きを置いていない人種だったに過ぎないのだ。だから、そもがら無関心だった人間を振り向かせる工夫をする、或いは切り捨てる、どちらかに徹することで、まだリアル書店には価値が見出だせる。活路が有る。

「紙の本」で有ることに意義を見出す人間は、これから年々減って行く。これはもう、多様化するメディアに於ける一つのサイクルであり、同様に出版業界が侵された宿痾でもある。自らが文化の担い手たる覚悟もなく、軽減税率問題に於いて業界の手足をもぎ取らんとしてまで、権益に固執するその姿勢に、果たして文化の担い手たる混沌足り得るだろうか。違うだろう。

リアル書店は、なくならない。本を愛し、文化を愛する者達は、これからも「本」を作り続けていく。いつか、そうした出版業界の外側に存在する文化の担い手たちの交流の場として、専門的な学識を扱う伽藍として、マスからパーソナルへの変革を経て、リアル書店は自らをブランディングすることによって、かつての「街の本屋さん」から脱却することによって、リアル書店は生き続けるのだと思う。

私もまた、そう有りたいと願う界隈の隅にいる。



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