【バガヴァッド・ギーター コラム #3】ドゥルヨーダナの嫉妬
ドゥルヨーダナは、ヨーガの聖典『バガヴァッド・ギーター』の母体『マハーバーラタ』において、主人公であるアルジュナたち5兄弟の従兄弟であり、ライバルとして描かれる人物です。
ドゥルヨーダナは100人兄弟+妹1人の長男であり、「100人」という異常に大きな数は、「考えの混乱」を示していると言われます。
(「108の煩悩」のような感じでしょうか。)
子どもの頃からアルジュナたち5兄弟と敵対し、常に陥れようと画策しては失敗する様子は、バイキンマンを彷彿とさせるようなやられっぷりですが、そんなドゥルヨーダナには悲しい生い立ちがあります。
ドゥルヨーダナは、ドゥルタラーシュトラ王の息子として生まれますが、ドゥルタラーシュトラ王は盲目であり、ドゥルヨーダナを見ることができませんでした。
悪いことに、母親であるガーンダーリーまで、なぜか「夫であるあなたが見えないのなら、私も見るわけにはいきません」と言い出して、自らの目を目隠ししてしまいます。
それに対して、「あなたの忠誠心に私は感動しました」と言ってしまう、とんちんかんなドゥルタラーシュトラ王。
(彼の無知と混乱した考えが、マハーバーラタ戦争の元凶とも言われます。)
そんなわけで、父親だけでなく母親にも一度も見てもらうことができずに育ったのがドゥルヨーダナです。
赤ん坊は、必要なお世話をされていても、親と目を合わせたりといったコミュニケーションがないと育つことができないと言われます。
そのような彼の生い立ちが、人格形成に大きな影響を与えたことは間違いありません。
ドゥルヨーダナを滅ぼした感情
物語上、嫌われ者のやられ役といった印象になりがちなドゥルヨーダナですが、全く無能だったわけではなく、むしろ王としては有能だったという意外な一面もあります。
特に彼は、「寛大さ、気前の良さ」という素晴らしい美徳を持っていました。
御者の息子として育てられたラーデーヤ(カルナ)は、ドゥルヨーダナの寛大さに感動して、無二の親友となり、生涯の忠誠を誓いました。
その他にも、マハーバーラタ戦争で世界が二分された時、損得勘定などの駆け引きからではなく、純粋にドゥルヨーダナを慕って彼の側に立って戦った王たちもいました。
(クリシュナ神の兄、バララーマもかつての生徒であるドゥルヨーダナへの愛情から、戦争ではどちらの側にもつかないという選択をしました。)
そんな美徳、慕われる人柄も持ちながら、彼を戦争というアダルマ、破滅へと進ませたものは、アルジュナたち5兄弟への「嫉妬」でした。
幼少期からのコンプレックスを背景とした嫉妬は、年長者たちの助言を聞き入れる平静さを失わせてしまいました。
彼自身、自分が子どものようにゴネていることは知っていながら、それを止めることができないと、ある場面では告白しています。
そのように、どれほどの美徳・美質も無効にしてしまい、正常な考えの働き、判断力を奪ってしまうものが嫉妬です。
世間的な物事を手放し、聖典の学びに専心する、サンニャーシーと呼ばれるステージの人にも、最後まで残る感情が嫉妬とも言われます。
2種類の嫉妬
嫉妬には2種類の嫉妬があると言われます。
マーッサルヤ
他の人の成功など素晴らしいところを見て、痛みが生まれるのがマーッサルヤ。
アスーヤー
他の人の持つ何らかの美徳に欠点を探そうと試み、妄想を上乗せして見るのがアスーヤー。
嫉妬の痛み(マーッサルヤ)を、そのままにしておくと、やがてアスーヤーに育ってしまいます。
反対の見方を持ち込み、習性の見方を中和させる想い方を、プラティパクシャ・バーヴァナと言います。
嫉妬の痛みに対しては、自分の意思を使って感謝と祝福に置き換えることができます。
その人には、この世界でその人が果たすべき役割(ダルマ)があり、そのために必要な能力、富、名声などが相応しく与えられています。
その人が果たしてくれる貢献に感謝し、私は成功したその人を祝福します。
私にも栄光があるように祈り、栄光を持てるように努力します。
私にも、私の役割において必要な能力、富、名声が相応しく現れています。
私が自分ではない他者になろうとすることや、嫉妬の感情から自由に、既に持っているものを楽しめますように。