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#40 ヴェーダと科学が明かす神

神とは何か

「輪廻」と同様、ヨーガの教えでは「神」は存在することが前提として語られています。
その神は、「バガヴァーン バガを持つ者」や「イーシュワラ 司る者」といった名前で呼ばれます。

バガヴァッドギーターでは「バクティ 神への帰依」の大切さが繰り返し教えられますし、ヨーガスートラでは「イーシュワラ・プラニダーナ イーシュワラを考えに留めること」の教えが含まれます。

「神、イーシュワラとは何か」を理解することは、ヨーガのゴールとさえ言えます。
ヨーガスートラも、イーシュワラの理解なしには教えの本質を理解、実践することはできないのですが、そのことを明確に伝えられるヨガの先生は多くはないように感じます。

私たち日本人にとって、「神」は宗教に属する話題で、あまり身近ではなく、はっきり言えば、宗教や神に対する嫌悪感、警戒心がある人が多いと思います。(私もそうです。)
ですが、私たちが嫌なのは、教祖がいて、改宗を迫ってくる組織的な宗教で、例えばアイヌの人々や、ネイティブ・アメリカンの信仰や儀式が怖い、嫌でたまらないという人はそれほどいないのではないでしょうか。

ヴェーダの教える神は、「天国にいて、この世界を作った、二本の手と二本の足を持った神様」ではなく、「神は世界全体に満ちていて、この世界のどこにも神でないところがない」という、ネイティブ・アメリカンやアイヌ、アボリジニなどを、世界各地の土着信仰によく似た宇宙観です。
日本人の伝統的な宗教観、「八百万の神」とも通ずる概念だと思います。

実際、ヒンドゥー教というのは、組織立った宗教ではなく、ヴェーダの教えに従って生きる人々がヒンドゥーと呼ばれ、教祖も改宗のプログラムもない、世界最大の土着宗教(信仰)と言われます。

作品と作者

私たちは目の前のコンピュータやスマートフォンを「作品」と見ています。
自分にはそれを作ることはできないけれど、誰かそれを作った人がいることを知っています。

あるいは、マグカップひとつを見ても同じです。
土がひとりでにマグカップの形になったりしないので、当然マグカップを作った作者がいると思います。

ですが、道端に咲いている一輪のスミレの花を作品と思わないのはどうしてでしょう。
どうして、スミレの花を作った作者がいるとは思わないのでしょうか。
スミレはたくさんの分子が集まってできた物ですが、物(分子)がひとりでに集まって花という作品になったのでしょうか。

私たちの考えは、自分の知識を超えたものを、作品とも、それを作った作者がいるとも思えないようになっています。

「それは自然だから」

と言うなら、自然は知的な作者です。
自然には何かスミレの花をそのように現す「知識」があり、その知識こそが「作者」です。

ヴェーダの言う「神」とは、その「知識」のことです。
世界をこのようにあらしめている知識そのものが神です。

宗教(信仰)とは対極と思える、最先端の科学はむしろそのことに気がつき始めています。

「(確率的に)今この宇宙で起こっていることが起こるには、何らかの超知的な介入があったと考えざるをえない」

そのように言う科学者もいます。

ヴェーダの話題は広範にわたり、科学でも証明された話題もあれば、輪廻や神のように人類の科学では証明することのできない話題も多く含まれます。
証明することができないと同時に、間違いだと否定することもできず、「そうだとすれば、この世界で起きていることの説明がつく」と言えるものがヴェーダの明かす知識です。

21世紀は宗教と科学が合一する世紀とも言われますが、ヴェーダが明かす神を、科学が発見する日も近いのかもしれません。

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