八支則のヨーガ 2.3【タパス】
タパス 修練
バガヴァッド・ギーター2章48番の詩では、ヨーガ(カルマヨーガ)の定義が述べられています。
この世界で起こる出来事は、「暑さ・寒さ」や「出会い・別れ」といった避けようのない二極の側面があります。
「時間」という法則の中、始まったものは必ず終わるし、得られたものは必ず失われます。
摂理としての二極性(二極に見える性質)はあっても、本来物事はすべてニュートラルで「良い・悪い」「正しい・間違い」などの二極はありません。
「出会いがよくて、別れは悪い」ということはないのですが、私たち個人には生まれ持った性質としてのラーガ・ドヴェーシャ(好き嫌い)があるため、物事に対して「成功・失敗」「得たい・避けたい」といった二極の見方をしてしまいます。
ラーガ・ドヴェーシャ、偏見があること自体は考えの自然な性質ですので、それらを完全になくすことはできず、その必要もありません。
ただ、「自分にはそのような主観的な見方があるのだ」と知り、「私の見方において物事はそんなふうに見える」ことを自覚しておくことが大切だと言われます。
それがギーターの教えるカルマ・ヨーガ(行いのヨーガ、ヨーガの生き方)の定義の一つであり、ヨーガスートラのいうタパスは、そのような資質を養うことだと言われます。
また、断食や沈黙といった「苦行」に見える行いは、「舌(口)のコントロール」のための修練です。
人間が最も欲求をコントロールすることが難しい器官は、口、すなわち「食べること」と「話すこと」だと言われます。
本来必要な食欲を満たす以上に、快楽のために食べ過ぎてしまったり、必要以上の話題や言葉を話してしまったりするような体験は誰にでもあると思います。
食欲や言葉を扱う練習をすることは、考えを扱うこと、思考の動きにより気づくことに繋がります。
いつもあまり考えずに喋っていた言葉が、沈黙の練習をすることで「言葉になる以前の考えの形、動き」に気づけるようになります。
考えの動きに気づくことで、自分の考え方の癖、ラーガ・ドヴェーシャに気が付きやすくなります。
「自分にはこんな見方、感じ方の癖があるのだ」ということに気づけることは、物事に対する平静さ、平等観といったヨーガの態度を養うための大切なステップになります。