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#30 「受け入れる」には「識別」が必要

ナマステー。

この場所にお立ち寄り頂きありがとうございます。

ヨーガの教えやヴェーダの知識を学ぶことは、医学の知識を学ぶことと似ています。

体の仕組みや病気の仕組み、治療法の知識を持っていたとしても、老いや病気から自由になるわけではありません。

知識がある分、健康を気遣ったり予防や対策をすることはできますが、抗うことのできない好不調の波や体質、寿命といったものがあります。

同じように、ヨーガで心の仕組みを学んでも、感情気分の上がり下がり自体はなくなりません。

違うのは、「パニック」がないこと。

医者が病気になったとしても、その病気がどのような病気で、快復までにどのような経緯を辿るのか知っていれば、体は辛くてもある程度落ち着いていることができます。

ヨーガで扱う心の問題も同じです。

思考や感情の仕組みを知らないと、思考や感情が私そのものと同一視され、巻き込まれてしまいますが、仕組みがわかっていれば今自分に何が起こっているか、ある程度客観的に捉えることができます。

客観的に捉えられた物事は、扱うことができます。
(ですので、思考や感情を言葉にすることは大切です。言葉に出来ない物事を考えは扱うことはできません。)

どのような事柄でも、「知らないこと」で不安が生まれ、「知識(知ること)」によって(ある程度)安心することができます。

聖者や賢者と呼ばれる人は、肉体や思考、感情気分と自分自身の本質であるアートマーの識別が出来ている人です。

悟りを得た人にも、感情気分の上がり下がり、ざわつきや、自動思考の反応は残りますが、それらは仕組みによって起こるもの、現れるのに必要な状況が整えばそのように現れるものです。

不快適な状況が体や考えに起こったとしても、そのことに引きずられて反射的に反応するのではなく、自分や周囲を傷つけないダルマな行い・選択ができるようになること。

ヨーガの聖典『バガヴァッド・ギーター』では、そのことが繰り返し教えられます。

मात्रास्पर्शास्तु कौन्तेय शीतोष्णसुखदुःखदाः । आगमापायिनोऽनित्यास्तांस्तितिक्षस्व भारत ॥२.१४॥

mātrāsparśāstu kaunteya śītoṣṇasukhaduḥkhadāḥ । āgamāpāyino'nityāstāṃstitikṣasva bhārata ॥2.14॥

おお、クンティの息子アルジュナよ。感覚器官と世界との接触は、寒さと暑さ、喜びと苦しみを 引き起こすもので、来ては去るという本質をもっており不変ではありません。それらに耐えなさ い。(理解して受け入れなさい。) おお、バラタの子孫アルジュナよ!

B.g.2.14

「耐えなさい」というのは、「とにかく我慢しなさい」という意味ではありません。

受け入れる、手放す、引き下がる、外側のものを外側に保つ、これら様々な言葉でヨーギーの目指すべき態度が語られますが、全ては「ヴィヴェーカ(識別)を持ちなさい」ということを言っています。

識別を持つことではじめて、受け入れ、手放し、引き下がり、外側に保つことができる、物事をそのようなものとして受け入れることができます。

アートマー・アナートマー・ヴィヴェーカ(自分自身とそれ以外のものの識別)のなさが、全ての問題の根本の原因です。

肌とは暑さ寒さを感じるものであるように、感覚は対象物に反応し続けるもので、ほぼ同時に、「快・不快」「好き・嫌い」の判断が考えによってなされます。

良い悪いではなく、感覚器官や考えとはそのようなものです。

そのことを仕組みとして受け入れて、感覚器官や考えを悪者にすることなく、言いなりになるのでもなく、好き嫌いを超えてすべきことをする、すべきでないことを避けるのがヨーガの生き方です。

そして、感覚や考えを対象物として私自身と識別して捉えることに加えて、それらの感情気分や考えの移り変わりもイーシュワラ(全体宇宙の法則・秩序)の現れた姿であり、個人の私はイーシュワラの中に生かされているのだという見方に留まることがカルマヨーガの実践の要です。

個人の私の目には不都合・不快適に思えるような感覚器官、体、感情、考えの反応、人間関係の摩擦なども、宇宙の秩序と何一つ矛盾することなく、起こるべきことが起こっている。

知れば知るほど、考えや感情は「現象」、この体と考えは法則の起こる「場所」であって、良い悪いで判断するようなものではないことが見えてきます。

痛みや悲しみ、苦しみでさえ、イーシュワラの美しく現れた姿であると見られるとき、私はすでに感情に巻き込まれる人ではなく、それらを上手に扱い、お世話することのできる人です。

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