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#38 習性と自由意志
20代の頃、働かせてもらっていたゲストハウスのオーナーの印象に残っている言葉があります。
「日本人の一ヶ月の給料が、数年分の収入になるような国に旅行で行って、金があることを見せびらかすようなことをしていたら、盗まれて当たり前。盗らせる奴が悪い」
というもの。
当時はそういう考え方もあるくらいに考えていましたが、後年ヴェーダを学ぶようになって、同じことが言われていることに気がつきました。
ヴェーダによれば、動物は行いをしているように見えたとしても全て習性(プログラム)で、自由意志による選択はないと言われます。
私たち人間だけに自由意志が与えられており、行いを選ぶことができます。
しかし、自由意志が与えられているとはいえ、私たち人間も自由意志をそれほど自由に使えておらず、多くの場面で習性通りの行動を選んでしまうものだとも言われます。
特定の状況で、特定の言葉を耳にすれば、特定の感情がポップアップし、感情のままに行動してしまう...
そこに自由意志による選択を差し挟む余地はなく、まさにプログラムです。
誰にでもあるそのような見方、感じ方の癖が「習性の考え」などと呼ばれます。
冒頭の話に戻ると、「豊かでない国の人が」「豊かな国から遊びに来た人に」「豊かさを見せつけられたら」、そのように条件が整えば、「盗ってもよいのではないか」という出来心を抱いてしまうのは必然だ、人の心とはそういうものだというのが、オーナーの言わんとしていたことだと思います。
親鸞聖人はこのような言葉を遺されています。
「さるべき業縁(ごうえん)のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」
親鸞聖人『歎異抄』(真宗聖典 p.634)
「しかるべき業縁(ごうえん)にうながされるならば、どんな行いもするであろう」という意
*業縁(ごうえん)
「業」とは私たちの生活行為のことで、身体的動作や言語活動や意思のはたらきをいいます。そして、それはすべて縁にしたがって起こっている。
実際にその行いを選ぶかは別として、そのように反応してしまうのが私たちの心というものです。
そのことを理解していれば、他の人の心を無用にざわつかせないために、出来心を抱かせないように、自分の行いを慎むのは大切なことだと思います。
血を必要とする蚊は、血が吸える状況があれば血を吸いにくるものです。
蚊が行いを改めることを期待したり、あるいは不快だからと傷つけたりするのではなく、血を吸われるという状況を避けたければ、網戸や蚊帳を使って蚊が血を吸える状況そのものを防ぐことが、自由意志を与えられている私たち人間のするべきことです。
他の人や生き物に対してはそのように配慮を持って振る舞いながら、自分自身においては客観性(イーシュワラ認識)を養い、習性の考えに気づけるための考えのスペース、ゆとりを保つ努力をし、習性通りではない行い、ダルマを選ぶ練習をすることがヨーガと呼ばれる生き方です。
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