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スワミジカレンダー 11【瞑想①】

瞑想は、デャーナムと呼ばれ、
「考えでイーシュワラを想う行い」です。

母の日や父の日に、お母さんやお父さんとの関係を特別にハイライトするのと同じように、イーシュワラとの関係を特別にハイライトするのがプージャーや瞑想です。
ちょうど樹がすでに森と関わっているように、波が海と関わっているように、個人とイーシュワラの関わりはすでにあります。
瞑想する人、デャーターは、イーシュワラとの関係だけを考えでハイライトすることで、私は彼の妻、私はこの子の母親、私はこの母の娘など、他の人と関わるための見方、役割観念を落としている人ですから、べーシック・パーソンとも呼ばれます。
その人は、イーシュワラだけとの途切れたことの無い深い愛の関わりに、くつろいでいる人で、変わる事のない「私」なのです。


ヴェーダの瞑想の定義

リラックス瞑想、集中瞑想、坐禅、マインドフルネス 等、現代では様々な種類の「瞑想」があり、その定義は様々です。

ヴェーダによる瞑想の定義は、

「サグナブラフマ・ヴィシャヤ・マーナサ・ヴャーパーラハ」

と言われます。

直訳すると、「質を伴ったブラフマンが話題の考えによる活動」です。

「質を伴ったブラフマン」とは、質の源であるマーヤーを伴ったブラフマン、マーヤー・ブラフマン、つまりイーシュワラのことです。

ですので、「イーシュワラを想う考えの行い」がヴェーダの瞑想の定義となります。

ヨーガ・スートラの瞑想部門はヴェーダに準拠して書かれており、やはりデャーナム、瞑想はこの意味で教えられています。

リラックスしたり、集中したりすることは、瞑想そのものの目的ではなく、イーシュワラを想う瞑想のための準備と位置付けられます。

瞑想は「考えを止めること」でもなく、瞑想中は積極的に思考を使ってイーシュワラをヴィジュアライズしていきます。

ヴィジュアライズとは、クラスで先生から学んだイーシュワラのヴィジョンを重ね、あらゆる物・事・形にイーシュワラを見抜いていくことです。

これまでのカレンダーで見てきたように、現れている全てはイーシュワラなのですが、私たちの日常の見方では、ただの物事に見えていて、イーシュワラを見抜けていません。

この体や考え、感情気分もそのように現れたイーシュワラと、クラスの中では想えていても、ひとたび家庭や職場などの日常に戻れば、すぐに引き下がった見方を失い、「あんたなんかにそんなこと言われたくない!」とやってしまいます^^;

ヴェーダのヴィジョンを明かす先生の言葉に留まり、見方を整えることがヴィジュアライズです。

その際、聖典の言葉から離れた「イマジネーション(空想)」にならないように注意が必要です。

例えばタットヴァ・ボーダを学んだ人なら、呼吸、音、触感、感情気分などを司どるそれぞれのデーヴァター(法則)を想うことで、法則として現れているイーシュワラをヴィジュアライズすることができます。

このことが「イーシュワラとの関係を特別にハイライトする」ことで、デャーナム、あるいはウパーサナと呼ばれる瞑想の中で行うことです。


イーシュワラとの関係にくつろぐのが瞑想

樹は森から離れて存在しないように、波とはすでに海であるように、個人はすでにイーシュワラであり、イーシュワラから離れて存在したことはないのですが、日常の役割に没頭するあまり、私たちはすぐにその事実を見失ってしまいます。

自分が全体であることを忘れ、小さな個人が自分だと思い込むことから、「私は母親」「私は娘」のように限定された役割が自分と同一視されます。

「限られた人」という自己認識から不安が生まれ、不安から執着やプレッシャーが生まれます。

「生き延びなきゃ!」という執着やプレッシャーから、束の間の安心や喜びを求めて他の個人との駆け引きが始まり、ダルマ、イーシュワラどころではなくなってしまいます。

瞑想の間は、親役、子ども役、部下役、上司役など、全ての役割を一旦脇に置いておきます。

全ての役割を手放し、イーシュワラに委ねます。

日常的な役割観念を全て手放している時、イーシュワラとの関係だけがハイライトされ、その人はイーシュワラとの関係だけにくつろいでおり、その人が「デャーター 瞑想者」「バクタ 帰依者」「ベーシック・パーソン」などと呼ばれます。

全ての役割が外れていても、ベーシック・パーソンであるあなたはあります。

そのあなたが様々に役割を装い、役割から生じるプレッシャーによってあくせくしているのです。

どんな役割や、役割にまつわるプレッシャーからも自由なのがあなたです。

その本来のあなたに留まる時間が瞑想です。

どれほど役割に没頭して、「役割が私」に見えている時でも、冗談で大笑いしている時、美しい景色に感動している瞬間など、役割観念の外れているふとした瞬間があります。

あるいは熟睡中も何の役割もない自分自身に留まっていて、ですから私たちはみんな熟睡が大好きです。

ラヤと呼ばれる没頭や熟睡の瞬間は、聖典を学んでいなくてもできるリラックスの体験ですが、瞑想中は「全てがイーシュワラ」という聖典のヴィジョン、知識によって「私が私が!」という考え(アハンカーラ、エゴ)がイーシュワラに解消し、リラックスを体験します。

「全てがイーシュワラ」はイマジネーションや信仰する話題ではなく、論理的な考えで理解することのできる話題です。

大切なのは、その理解(識別)の見方が日常においても保てるようになることですが、何十年もかけて形づくられた古い習性の見方は強力で、新しい見方が自然な見方となるには相応の時間と努力が必要です。

ですので、一定期間聖典と先生の言葉に耳を傾けること、できれば毎日瞑想の中で聖典のヴィジョンに留まる練習をすることが大切と言われます。

識別によって執着を手放すことがヴァイラーギャ、その客観的な引き下がった見方に繰り返し留まる練習をすることがアッビャーサと言われます。

瞑想はそのように実践されるものであり、ヴェーダーンタの学びにおいて、モークシャのための欠かすことのできない実践とされています。

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