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【バガヴァッド・ギーター コラム #2】アルジュナは「生徒の見本」

バガヴァッド・ギーターは、主人公アルジュナと、親友でありイーシュワラの化身であるクリシュナの対話の形式で進んでいきます。

この記事のトップ画像では、右で立っているのがクリシュナ、左側で跪いているのがアルジュナです。

アルジュナとはどんな人なのかを理解することは、ギーターに親しみを持つとともに、ギーターが「どのような人に向けた教えなのか」を理解することにも役立ちます。

kārpaṇyadoṣopahatasvabhāvaḥ pṛcchāmi tvāṃ dharmasammūḍhacetāḥ | yacchreyaḥ syānniścitaṃ brūhi tanme śiṣyaste'haṃ śādhi māṃ tvāṃ prapannam ||7||

自分自身の義務に混乱し弱くなった心に圧倒された私が、私にとってどちらが確かによいのか、 あなたに尋ねます。どうか話してください。私はあなたの生徒です。あなたに保護を求める私にどうか教えをください。

na hi prapaśyāmi mamāpanudyād yacchokamucchoṣaṇamindriyāṇām ।
avāpya bhūmāvasapatnamṛddhaṃ rājyaṃ surāṇāmapi cādhipatyam॥8॥

たとえライバルのいないほど繁栄した王国を手に入れようとも、天界の住人たちの統括者に君臨したとしても、私は、この私の感覚を乾かしてしまう悲しみを取り除くものを何も知りません。

B.g.2.7-8【バガヴァッドギーター ホームスタディ】

クリシュナの教えはギーター2章11番の詩から始まりますが、直前のこれらの詩はアルジュナの偉大さを表す詩だと言われます。

「シッシャ」という言葉は「生徒」と訳されていますが、生徒の中でも先生の言葉に信頼を持って専心する、「最も優れた生徒」を意味します。

自分自身が完全に行き詰まった状況にあることを認め、「私はあなたの(最も献身的な)生徒です」と言って、クリシュナに救いを求めたのです。

アルジュナのそのような態度をクリシュナは喜び、ヴェーダの結論、ヴェーダーンタを教え始めます。

クリシュナはイーシュワラの化身した姿として現れてはいましたが、この場面に至るまでヴェーダーンタを教えることはありませんでした。

クリシュナから教えを引き出したことは、アルジュナの偉大な功績と言われます。

ダルマに専心する人、アルジュナ

アルジュナは王家に生まれ、クシャットリヤ(戦士)として幼少期から英才教育を受けてきた人です。

当然ヴェーダの教えにも精通し、ヴェーダの教える王族としてのダルマ(義務・役割)にコミットした生き方をしてきた人です。

自分自身の好き嫌い(ラーガ・ドヴェーシャ)を超えて、クシャットリヤとして、息子として、弟として、夫として、父として、果たすべき義務を最優先にできる人です。

そのようなアルジュナの姿は広く尊敬され、人々は自分の子どもにはアルジュナのようになってほしいと望まれるような人でした。

そのような人であるので、マハーバーラタ戦争(ギーターの舞台)においても、当然自身のダルマを遂行するつもりでいました。

そのアルジュナが、自身が戦うべき相手の中に愛する祖父や尊敬する先生、お世話になった人々の姿を見てショックを受け、心が揺らぎます。

これまで自分はダルマにコミットして生きてきて、今回もそうするつもりでしたが、その結果身内を殺すことになるのであれば、もはや何のためのダルマ、何がダルマなのかわからなくなってしまいます。

戦うことも、退くこともできず、前にも後ろにも進めなくなってしまうのです。

たとえそれが天国(行いで叶う最高のゴール)であっても、もはや行いによって叶う結果が自分をこの悲しみから救うことはないと、希望を見出せなくなってしまいました。

その時アルジュナは、そういえば、ヴェーダはその結論でモークシャという人間のゴールについて教えているという、かつて先生から聴いたことのある(理解はしなかったけれど)ヴェーダーンタの教えのことを思い出したかもしれません。

自分の今の混乱、行き詰まった状況は、何か大切なことが自分には見えていないためかもしれない。

クリシュナなら、そのことを知っていて自分をこの状況から救ってくれるかもしれない。

クリシュナ、イーシュワラへのアルジュナの帰依の態度が、神の慈悲として実り、教えが始まります。

そのように、ギーターの教え、ヴェーダーンタを学ぶ生徒の資質、態度が、アルジュナをモデルとして描かれています。


失業、離婚、病気、怪我、愛する人との死別など、行いと行いで叶う結果にもはや追求する価値を感じられなくなってしまう、そのような識別が起こる場面は私たちの人生にもあります。

そのことは、ニッテャ・アニッテャ・ヴァストゥ・ヴィヴェーカ(永遠のものと永遠でないものとの識別)と呼ばれ、非常に稀なことと言われます。

そのヴィヴェーカ、識別が起きてはじめて人は、ひと時の安心や喜びではなく、「私とは何か」「人生とは何か」を探求し始めます。

先生が目の前にいても、その人を先生と見ることができなければ、先生から教えを得ることはできません。

アルジュナのライバル、ドゥルヨーダナにももちろんクリシュナは見えていましたが、クリシュナを神と見ることができなかったので、クリシュナよりも彼の軍隊を選び、教えを得ることはできませんでした。

もはや行いの結果で叶うどのようなことも、自分を本当に満足させることはできない。

アルジュナのように、そのように自分自身の限界を悟り、識別が起こった人が、自分自身を完全に明け渡し、先生に教えを求めることができます。

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