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#39 ヨーガの練習のステージ

季節が進み、日中は30度を軽く超える暑さになってきたので、毎朝早朝に行っているプージャーやシュラヴァナム(クラスで先生の話を聴くこと)をお休みし、日の出前に田畑に出るようにしました。

元々ルーティーンに対するこだわり、執着の強い性格で、以前はこうした変更には抵抗がありましたので、今回迷いなくそうできたことに自分でも驚きました。

そんな自分自身の変化に関して、思うところを記してみます。

カルマ・ヨーガの実践

自分は、おそらくこのnoteをご覧の多くの方と同じように、「グルハスタ」という家庭や社会での役割に専念するステージ(つまり社会人)にいます。
勤めには出ていませんが、自営業者として田畑を生業、生活の糧の一つとしているので、田畑での活動によって社会に貢献したり、家族を養うことは、グルハスタとしての自分の義務、役割です。

一方で、早朝のプージャーや瞑想、アーサナの練習は、自分のスピリチュアル(精神的)な成長のために大切なことではありますが、義務ではなく、あくまでも「したいこと」です。
両立できれば問題ないですが、時間的、経済的、体力的などの様々な制約がありますので、どちらかを諦めなければならない場面もあります。

そんな時、迷わずに義務、すべきことを選べるようになったのが、この数年での変化だと感じます。

ちなみに妻は、妊娠・出産前は毎朝アシュターンガ・ヴィンヤサ・ヨーガを練習していましたが、今は娘の世話を最優先しつつ、中断しながらもできる範囲でアーサナの練習を続けています。

プージャーや瞑想、アーサナがそんなに大事だったの?と思われるかもしれませんが、それらが時に自分の義務、役割より大事に思えてしまう、価値構造の混乱があったのだと思います。

ギーターではまさに、そのような価値構造の混乱を整えていくための生き方として、カルマ・ヨーガが教えられます。

「まずはあなたのダルマ(すべきこと、義務)に留まりなさい。
義務を行う際は、それを宇宙全体の秩序、調和への捧げ物として行いなさい。
(捧げ物ですので、当然それはダルマな行いでなくてはなりません。)
できるだけの努力、丁寧さをもって行いをしたなら、結果に対する心配や執着なく(期待はあってもよいけれど)、どのような結果もダルマの法則によって与えられる最善のプラサーダ(授かり物)として受け取りなさい。」

それがカルマ・ヨーガという、練習の生き方です。

カルマ・ヨーガは何のために行うかというと、個人的な好き嫌いや、身体や考え、感覚器官の快適、不快を超えて、義務、役割を果たせるようになるためです。
(そのようにダルマ優先の価値構造を整えていくためです。)

義務には幸せな義務もあれば、不快な義務もあります。
喜びをもってできなくても、義務は義務ですので、果たさなければなりません。

義務よりも好き嫌い、快適さを優先するとき、束の間の喜びがあったとしても、すべきことをしていない罪悪感、後ろめたさが残ります。
それが続くと、だんだん自分のことが立派に思えず、「こんな自分はどうなんだろう?」という良心との摩擦、自尊心の低さに繋がってしまいます。
不快な義務であっても、それを滞りなく行うとき、そんな自分に対しての安心感、喜び、自己尊厳があります。

グルクラムでの生活

数年前、一ヶ月ほどインドのグルクラム(ヨーガの学校)に滞在したことがあります。

毎朝日の出前からアーサナを練習し、午前中は座学のクラス、午後はチャンティングのクラスが日曜日以外毎日あります。
食事はピュアベジタリアン(五葷抜きベジ)が三食提供されます。
乳製品以外の動物性の食品や、お酒、タバコは厳禁です。
南インドの海沿いの片田舎、小さな村にあるグルクラムで、休日は海辺に行ったり、バスで最寄りの町に出て寺院を訪れたりしていました。

ヨーガに興味がない人からすれば、ほとんど娯楽のないストイックな生活ですが、それらを学びたい人にとってはとても快適な生活です。
清掃などのボランティアの時間はありますが、義務が一切なく、「好きなこと、したいこと」だけをしていればよいのですから。

けれど、体験してみるとわかりますが、そのような環境は「心を成長させること」が難しい環境でもあります。

義務らしい義務がそもそもないので、すべきこととしたいことの間での葛藤がなく、乗り越えるべき課題が見えにくいのです。
葛藤がないこと、課題が表面化しないことは、自分の内面の未解決な問題が解決したわけではなく、ただそれらが現れる機会がないだけです。
その証拠に、日本に戻るや否や、ひとたび状況が整えば、それらはちゃんと現れてきます(笑)

後に師事することになったスワミジが仰っていたのは、

「心の成熟が不十分なまま、サンニャーシー(出家修行者)になるのはお勧めしないし、危険だよ」

ということでした。

サンニャーシーとは、家庭や社会での全ての義務、役割を放棄して、アーシュラムなどで聖典の学びに専念する人生のステージです。
役割や義務を通してのヨーガ、成長の機会が豊富なグルハスタと違い、サンニャーシーにはカルマ・ヨーガの機会はほとんどありません。
後から情緒的な成長が不十分だったことに気づき、カルマ・ヨーガをしたいと思っても、一度サンニャーシーになったら他のステージに戻ることはできません。

グルクラムでの滞在は素晴らしい時間でしたが、滞在の終わり頃は、「日本に帰って畑をしたい」と明確に思うようになりました。
「畑」に代表される自分なりの義務、役割を持って、その中で自分を成長させたいということだったのだと今は理解しています。

その後、結婚、娘の誕生というイベントを経て、望み通り心を成長させるためのたくさんの義務、役割を与えられました。
役割にまつわるToDoリストや、身近な関係性の中でのちょっとした不調和に圧倒される時、インドのグルクラムでは決して出会えなかったであろう自分の心の側面、未解決な感情気分がポップアップしてきます。

それらと向き合うことが、ちゃんと心を成長させてくれている。
先生から学んだヴェーダーンタの教えが、ただの知識ではなく、自分自身に内在化されてきている。
少しずつですが、そんなふうに感じられる時、完璧な宇宙の法則・秩序、イーシュワラの愛のアレンジメントに感謝が溢れてきます。

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