見出し画像

可能性を否定しない夫の器に惚れる

7月に入るとすぐにマドリードに住んでいる義理の両親と甥っ子が、私達が住む北スペインの港町へとやってくる。

暑いマドリードの夏から、避暑地のここへ来るのが毎年恒例なのだ。

義理姉夫婦は仕事があるので、ずっとここにいることは出来ないし、義理の両親も高齢のため、甥っ子を面倒みるには限界がある。必然的に、私達と過ごす時間が多くなる。

午前中は私達も仕事があるので、甥っ子にはサーフィンのクラスを受けてもらい、午後から私達と合流し、週末は我が家へ泊まる事になっている。

甥っ子との時間は、「予測から来る否定は可能性を狭める事」だと思い知らされる時間でもある。

小さな事でも、経験上きっとこうなるだろうと先の予測が出来たり、誰かに否定されたりして、足がすくんでしまう事はないだろうか?

例えば、昨日は近所のビーチに、甥っ子を連れていきボディーボードで遊んだ。最初は波を捕まえて遊んでいたのだが、だんだんボードの上に座ってみたり、立ってみたり、仰向けに寝てみたり、最後はボードを裏返して試していた。怪我したらいけないし、大丈夫かなと思いながら見守っているが、夫はどんどんやれ!という感じである。

色々な挑戦を躊躇なくできるところが、経験の少ない子供の特権だろうが、見守る器も必要なんだろうなとも思わせられる。

夫に言わせれば、遠浅で足がつくし、甥っ子はサーフィンをしているので足がつかない場所でも泳げる。いつも波に揉まれていて、海に落ちること自体、慣れている。ごった返すビーチでもないので、周りの人に迷惑をかける事もない。だから大丈夫。予測の方向が私と全然違っていた。

甥っ子がビーチにある岩に登った時も、義理父は「危ないから登るな、すぐに降りてこい」と言っていた。私も思わず、義理父のように言いかけた時、夫が「好きにやらせてやれ」と言って割って入った。そして、甥っ子に「登ってもいいけど、危ない事はかってるよな。足元をちゃんと注意して登って降りてこいよ」と言い行かせた。「わかった」と言った甥っ子も無茶はせずに、ちゃんと足元を確認しながら登り降りてきた。とても満足そうだった。そこに夫と甥っ子の信頼関係がある事がはっきり見てとれた。

そうだった。予測によって思わず止めようとしてしまっていた。

予測は大事。でも、この予測が出来る上に縛られて動けなくなるのは勿体ないし、経験を途中で止めてさせてしまうのも勿体ない気がする。

これって人生においても、よくあることのような気がする。
挑戦してみたいのに、誰かからの否定で止めてしまうこと。

そんなの無理に決まってるだろ
出来るなんて聞いたことがない
そんなムダなことやらない方がいいよ
やめておけ!
失敗するよ!

世の中にはネガティブな言葉が溢れているが、その言葉のどれくらいが、本人の経験に基づく言葉なのだろうか?彼らも、誰かからの否定の言葉によって、止めた経験があるのではないだろうか。

私もこの否定の言葉に惑わされた経験が沢山ある。

実際に経験した人の言葉ほど重みはあるが、受け売りで聞いた言葉ほど軽いものはない。そこに惑わされる必要はない。

実際に経験した人の言葉ほど重みはあるが、だからといって同じ結果になるとは限らないし、同じ結果になっても、それが経験として蓄積され、言葉に重みがでてくるのだと思う。

結果、挑戦は「得るものしかない」のだと思った。

何かに挑戦したい時、子供に戻って純粋に楽しんでいいのだと思う。そして誰かが挑戦しようとしている時、否定ではなく心から応援できる自分でありたいと思った。

器の大きな人間になれますように!七夕に祈ってみた。













この記事が参加している募集

#海であそぶ

1,021件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?